I had a little nut tree


 きっかり一時間。名前の体は極めて時間に正確であった。
 にも関わらず、名前が目覚めた時点で既に、降谷零の目は警察官のものになっていた。眠る前のあどけなさが夢のように。

「それで作業の進捗状況は?」

 その鋭さは彼らしいものではある。が、名前としてはほんの少し残念な気もしていた。ーーあんな珍しい彼、もっと目に焼きつけておけばよかった。
 後ろ髪を引かれつつ、名前は眠る前と同じ、モニターの前に座った。その後ろから零は画面を覗き込む。彼の目は忙しなく右に左に走り、必要な情報だけを拾い上げていく。それに名前は頷きでもって返した。

「あなたの言った通りよ。爆発と同時刻、ガス栓へのアクセスがあった」

「アクセス元は」

「さすがに串が通してあったわ」

「串……Norか」

 瞬時にソフトウェアの名を言い当てられ、名前は肩を竦めた。

「当たり。まぁ無難といえば無難な選択よね」

 Norーーネット犯罪を語るにあたってその名は欠かせないものだろう。ネット上での匿名性確保に特化したブラウザソフト。IPアドレスを暗号化し、無作為に選ばれた複数のパソコンを経由することで接続元まで辿れなくするものだ。
 しかしその匿名性は決して完全なものではない。
 だから彼の「解析はできそうか?」という問いに名前は頷くことができた。

「できると思うわ、前例もあるし。ただ時間はかかりそうね、国を跨いでるもの」

「……そうか」

 そこでふ、と。降谷零の目が鋭さを帯びた。
 画面に表示されているのは膨大な文字列。近年起こったNorによる犯罪を纏めたものであった。その最後、つまり直近で起きた事件ーーNAZU不正アクセス事件ーーそこに、彼の視線は集中していた。
 NAZU不正アクセス事件。1年ほど前に起きたそれでも今回と同じ、Norが悪用された。名前もその点に注目した。が、犯人は現在も身柄を拘束されている。今回の事件に関わりようがない。
 ーーでは、なぜ?
 問いかけて、けれど結局名前は開きかけた口をつぐんだ。彼の目がーー降谷零の澄んだ瞳が一瞬、翳ったように思えたからだ。
 思い悩む名前の視界。その片隅で明滅する携帯の光。画面上に浮かぶメッセージに、そういえば、とひとつの記憶が弾ける。
 同時に甦る魔女の囁き。平常を装ったそれに急き立てられ、名前は口を開いた。

「ねぇまだ彼を使うつもり?」

 彼、と名前は呼んだ。名前は出さなかった。名前には彼を呼ぶ適切な語が思いつかなかったからだ。
 しかしそれでも零には通じた。

「反対?」

 そう首を傾げる姿からは先刻感じられた翳りは見られない。ともすれば幻だったのかとさえ。
 しかしだからといって掘り下げようとは思えなかった。気のせいかもしれない。けれど、名前は自身の勘に従うことにした。
 考えながら、名前は言葉を選ぶ。

「……彼個人のことはいいのよ、でも、」

 ーーベルモットが。
 その名は静寂の中ではよく響いた。ベルモット。魔女と呼ばれる組織の女。
 名前の言葉に、零は片眉を上げる。「ベルモットが?」怪訝そうな声。それも当然か。なんせベルモットが彼らに執心する理由はさしもの降谷零にすらわからないのだから。

「そう。どこで嗅ぎ付けたのか……私の宝物は無事かって」

 その電話がかかってきた時のことを思い出し、名前は眉をひそめる。
 名前は昨夜一晩中パソコンと向き合っていた。降谷零の助けとなる。そのためならばどんな苦も厭わしくないし、少しでも役に立ちたかった。
 そんなわけで集中していた名前だ。彼女からの連絡に気づいたのは、着信が3度目に入った時であった。
 お陰で電話口の声は開口一番から機嫌が思わしくなかった。はっきり言って苛立っていた。電話の向こうの彼女が指先で机を叩いているのも、貧乏ゆすりをしているのも想像がつくほどに。

「さすがにあなたのことまでは把握してないようだけど、」

 ベルモットが把握していたのは毛利小五郎が逮捕されたこと、ただその一点のみである。とはいえそれすら日本ではニュースになっていないのだから、彼女の情報網にも侮りがたいものがある。

「……腐っても女の勘ってやつか」

 しかしその程度のこと、降谷零には冗談まじりにあしらわれてしまう。
 彼は笑いながら片目を瞑ってみせた。

「じゃあなおのこと毛利先生には送検されてもらわないと、それも早くにね」

 なぜ、と名前は初め瞠目した。なぜ、どうしてそこまで毛利小五郎の送検に拘るのか。
 降谷零の目は名前を真っ直ぐ見つめていた。君ならわかるだろう?そう無言のうちに語りかけられ、名前は思考する。
 毛利小五郎。警視庁捜査一課に在籍していた探偵。彼の妻は法曹界の女王、妃英理。毛利蘭の父であり、そして江戸川コナンのーー
 そこで名前はハッとした。
 思わず、感嘆の溜め息がこぼれる。

「……そこまで考えていたの」

 降谷零は江戸川コナンの推理力を買っている。しかし彼はまだ少年で、そして警察官が捜査情報を彼に漏らすことはできない。
 けれど、彼の保護者である毛利小五郎が送検されれば話は別だ。
 そうすれば捜査資料は間違いなく妻であり弁護士である妃英理の元へ向かう。正真正銘、なんの偽りもない捜査資料が。そしてそれを家族である江戸川コナンは目にすることができる。なんの法も犯さず、正確に。
 だから彼でなくてはーー江戸川コナンでなくてはならなかったのだ。
 名前の称賛に、零は笑うだけだった。否定も肯定もしない。けれど、名前にはそれで十分だった。

「わかった。ベルモットには手だしされないよう適当に言っておく」

「助かる」

「だから彼にはさっさと解くようせっついておいて。得意でしょ、そういうの」

「なんか言い方にトゲがない?」

 顔を覗き込まれ、俯く。
 自覚はしていた、けれど。

「……だって、悔しいんだもの」

 それでも言葉にーー少年に対して敵意に似た感情が滲むのを我慢できなかった。
 こんなのは我が儘だ。わかってる。人には得手不得手というものがあって、そちらは名前の領域でないというだけで。
 しかし、それでも。

「私だってあなたの協力者になりたかったわ」

 名前は口を尖らせた。
 自分も日本人であったら。いや、せめて確かな身元さえあれば。ーー日の下を歩ける人間であったならば。
 過去がなければ今の名前はない。それを理解した上で、それでもなお心は夢想する。叶わぬ夢を見る。
 これまでなら、降谷零と出会う前であったならば、こんなことを考えることもなかった。自分の人生に不満を覚えることなど、なかったのに。
 そう目を伏せた名前に、零は小首を傾げた。「あれ、違った?」恐らく、名前の胸中など知らぬフリをして。

「僕はとっくに君のことを協力者だって思ってたんだけど」

 明るい声で、名前を包む。
 その朗らかな笑みに、眼差しに、名前がどれほど救われたか、彼は知らないだろう。どれほどそれが名前の今を支えているかなんて、きっと、彼は。

「……私、零の役に立ててる?」

「あぁ、もちろん」

「……そう」

 知らなくていい。名前が彼のために、死ぬことを望んでいるなんて。その身を捧げることでしか過去を清算できないと思っているなんて。
 協力者にすら心を砕く彼には、知らないままでいてほしかった。