I had a little Hen


 毛利小五郎が逮捕されて2日が経った。
 この間降谷零が表立って動くことはなく、代わりとばかりに江戸川少年が阿笠博士邸や妃弁護士事務所を行ったり来たりしていた。実に忙しないことに。
 それを仕向けた当の本人はといえば、少年に仕掛けた盗聴器に耳を傾けていた。それはもう、名前が口を挟むのを躊躇うほど熱心に。
 ひどく真剣な眼差しで様子を窺っているものだから、名前は嫉妬するのを通り越して心配になってしまった。昼夜問わずーー寝食すら忘れそうなほど鬼気迫る雰囲気。張りつめた空気はともすれば壊れてしまいそうに思えた。

「……」

 とはいえ、不正アクセスの接続元を特定できていない今、名前に彼を止める手立てはない。彼の安息はすなわちこの国の安息でもあるのだから。
 そんなわけで行き詰まっていた名前は、気晴らしもかねて食事を作ろうと席を立った。
 そうはいってもあまり時間を割くわけにはいかない。
 名前はバンズを買っていたのを思い出し、チキンサンドを作ることにした。レタス、トマト、新玉ねぎ。それらをカットし、鶏肉を焼く。バンズにはマヨネーズとマスタードを塗って、具材を積み重ねたら完成だ。これだけなら20分もかからない。
 ーー零にも差し入れしないと。
 そう思っていた名前であったが、彼は自分からリビングまで出てきた。相変わらず耳には盗聴器をかけたままではあったが。
 それでも彼はふらふらとした足取りで現れると、名前の手元を覗きこんだ。

「いい匂いがすると思ったら……美味しそうだ」

「食べる?」

 訊ねると、もちろん、という言葉が返ってくる。その目の明るさにホッとしつつ、名前はソファに腰掛けた。
 零もその隣に座り、「いただきます」と両手を揃えてからチキンサンドにかぶりついた。

「あぁ……胃袋に沁みるな」

「そんなにお腹空いてたの」

 ならもっと早く言ってくれたらよかったのに。
 そう眉尻を下げる名前に、「そうじゃないよ」と零は笑う。笑うけれど、答えは教えてくれなかった。
 食事は驚くほど和やかに進んだ。外の世界で起きている事件など嘘のように。
 けれど現実であることを、降谷零は突きつける。
 食事を終えた彼は、それまでの穏やかな表情を覆い隠して、「頼みがある」と名前を見つめた。

「橘境子の動向を探ってほしい」

 できるか?そう問う眼差しに、名前は無意識のうちに頷いていた。そうしなくてはならないという義務感に駆られるほどの真剣さだった。だからそうした後で名前は首を傾げた。

「でも橘境子って……毛利先生の弁護士のことでしょう?」

 どうして彼女を、というごく自然な疑問。
 名前自身は橘境子という弁護士に会ったことはない。が、蘭からの連絡でその存在は知っていた。橘境子。負け知らずの弁護士、妃英理の対極に位置する、敗北続きの弁護士。不安ばかりの彼女にとっては頼りない味方であろう。
 そんな彼女を慰めるしかできない名前は、歯痒さに拳を握りしめたものだ。とはいえ話を聞く限りでは橘境子に怪しい点は見受けられなかった。だからなぜ、と。
 その疑問に零は一瞬躊躇した。それは僅かなヒビ。揺れた瞳に、訊ねた名前の方が驚いてしまう。

「言いたくないならいいのよ、私は言われた仕事をするだけだから」

「いや……」

 慌てて言い繕った名前を、しかし彼自身が制した。

「話すよ。名前には知っておいてもらいたい。知って、その上で判断してほしい」

「判断?」

 何を、と問う前に彼の唇が動く。降谷零の、公安警察の声が、室内に響く。

「……彼女は協力者だ」

 それはひどく重々しい声音だった。固く、けれどだからといって冷たくもない。ただの事実を告げる色で、しかしそれには似つかわしくない重さで、言葉はふたりの間に落ちる。

「協力者、って……」

 拾いあぐねて、名前は聞き返そうとした。だがすぐにハッとした。
 ふと脳裏に蘇るのはいつの記憶だったか。彼から教えられたこの国の仕組み。警察組織ーー公安の仕事についての知識である。
 そのなかに同じ響きのものがあった。公安の協力者。彼らの捜査の手助けをする民間人の存在。まさか橘境子もそのひとりなのかーー。
 けれどそこで名前の思考は疑問にぶつかる。

「でもそれならなおさらおかしいわ。今さら調べる必要なんて」

 公安警察の協力者。民間人とはいえ、いやだからこそ彼らが協力者足り得るか警察はきちんと調査しているはずだ。橘境子もそうだったろう。彼女が協力者となってどれだけ経つかは知らないが、いつにせよ今さらなのは変わりない。
 それを零は「そうだな」と受け止めた。とても静かな声で。

「杞憂かもしれない。だが、違和感を放っておくわけにもいかない」

 けれど彼の判断は覆らなかった。この状況下で橘境子の動向を調べることに。ーー彼女の監視をすることに。

「……わかった」

 それはつまり彼女がこの国に対し謀反の疑いがあると思われたに他ならない。
 名前もまた、抑えた声で彼の判断を受け入れた。

「ちょうど行き詰まってたところだし、蘭さんの様子でも見てくるわ」

「やはり接続元を割り出すのは難しい?」

「……認めたくはないけど」

 個人の、それも名前程度の技術では限界がある。他国にまで干渉するのは現状困難なことであった。

「国を跨いでいる以上、他国にも調査を依頼するしかないと思う」

「他国か……。あまり借りは作りたくないが……仕方ないか」

 渋い顔の彼に、悔しさが押し寄せる。もっと力があれば。今さら無駄なこととわかっても、一度沸いた感情をなかったことにはできなかった。
 それを掌に爪を立てることでやり過ごし、名前は平然とした顔で口を開いた。

「とりあえず今のところ掴んだデータはあなたに渡しておくから好きに使って。ついでに毛利先生の無実の証拠も作っておいたから」

 といっても大したものじゃない。警察側が仕込んだパソコンのアクセスログ。それに細工をして、彼のパソコンが不正アクセスの中継点にされたように見せかけた。ただそれだけのことである。名前がいなくたって降谷零の優秀な部下たちなら造作もなくやってみせたろう。
 なのに零はーー優しい彼は、名前に穏やかな微笑を向ける。

「仕事の早い仲間がいて助かるよ」

 その言葉に、優しく頭を撫でる指先に、触れる温もりに、どれほど名前が救われたか。彼のためなら何をしたって構わないと覚悟できたか。彼の愛するものを、名前も守りたいと思えたか。彼は、わかっているのだろうか。
 名前には彼が与えてくれたものだけで十分だった。余りあるほどの幸福だった。
 けれど真っ直ぐな賞賛に、名前は言葉をなくした。あまりに眩しすぎると、目をそらした。

「……それだけ?」

 照れ隠しに唇が紡ぐのは想いとは正反対の言葉。緩みそうな顔を引き締めた名前の声は、つんと澄ましたものだった。
 なのに、それすら降谷零は受け止める。

「この一件が片付いたら目一杯撫でてあげるよ」

 春の日差しのような微笑みのまま。とろりと溶けた瞳で名前を包んで。戯れのように名前の輪郭を擽った。
 飼い主が甘やかすから飼い犬は調子に乗るのだ。そう責任転嫁して、名前は珍しく褒美をねだった。「ついでに山程の誉め言葉もつけておいて」と。

「もちろん」

 それにも彼は大きく頷いて。疲れているだろうに、真に労われるべきは彼だろうに、その大きな掌で名前の髪を梳いた。
 彼の腕のなかは揺りかごのようだった。穏やかで温かくて、居心地がいい。だから手離しがたくなってしまう。我儘に、強欲になってしまう。
 やはりこの人は何より尊い。尊く、気高く、美しいーー名前の神さま。

「零は、きれいね」

「……そんなことないよ」

「ううん、きれいよ。あなたが、一等きれい」

 ありがとう、と笑う彼には翳りがある。その理由を察した上で、それでも彼こそが真に尊いものだと名前は信じて疑わなかった。