雲夢大沢


 周の都、鎬京を通り過ぎ、名前たちは南東へと舵を切った。
 世界にはパワースポットーー霊穴と呼ばれる場所がいくつかある。その中でも特に名の知れた地にふたりは向かっていた。終焉を予感しながらも、決して態度には見せず。

「そういえばこちらには来たことがなかったのう……」

「そうですね、当時は西岐から朝歌までの旅でしたし……」

 その上、革命が終結し、女カとの戦いが終わった後は西へ西へと旅を進めてきた。お陰でこちら側へ立ち寄る機会がなかったのだ。
 太公望と共に旅をしていなければ見ることのなかったであろう景色。周最大と名高い湖を眺め、名前は息をついた。

「しかし本当に大きいですね……」

「うむ、八百里洞庭の名も伊達ではないといったところか」

 ふたりは洞庭湖北部、雲夢大沢にまで至っていた。
 夏の盛りを迎えた周。そのなかでも楚の暑さは厳しく、日中の移動は困難であった。おまけに雨も多い。お陰で殆どの時間を休息に割くことになった。
 それが良いことだったのか悪いことだったのか。少なくとも名前にとっては幸運であったーーもちろん、口に出すことはしなかったけれど。
 木陰でふたり、休息を取りながら、名前はそっと太公望の様子を窺った。もぎ取ったばかりよ桃を頬張る姿からはその類いの感情を察することはできない。
 ただ、彼も同じ気持ちだったらいいーーそう思うくらいしか名前に与えられた自由はなかった。

「美味しいですか?」

 隣で横たわる彼の顔を覗き込む。そうすると名前が座っているせいで太公望の顔には色濃い影が落ちた。
 ほんの少しの征服感。それがたとえ幻であったとしても、名前の心は僅かばかり慰められた。
 太公望は「あぁ」と答えた後で、名前にその手を差し向けた。食べかけの桃が乗ったそれを。

「おぬしも食べてみろ。なかなかに美味だぞ」

「……では、一口」

 本当ならそんなことする必要はなかった。立ち上がり、太公望がしたように刈り取ってしまえばいい。そうすれば一口と言わずいくらでも食べることができる。
 けれど名前はそうしなかった。太公望の胸元にまで垂れる自身の髪を耳にかけ、そっと唇を寄せる。彼の掌へと。その芳しき果実へと。
 太公望もまた、何も言わなかった。ただ、唇の掠めた指先がほんの微かに身動いだ。静かな眼差しに、仄かな熱が灯った。ただ、それだけだった。

「……美味しいですね、本当に」

 柔らかな肉を食む感触。口内に広がる甘やかな果汁。これを他よりも美味と感じるのはどうしてだろう。太公望の言うように、気が満ちているからか。ーーそれとも、隣に彼がいるからか。
 その答えも近い将来に見つかるだろう。名前が望まざろうとも。
 目を伏せた名前に、太公望は何事か言いかけた。その指先にしたたる蜜すら舐めとりながら。けれど結局は何も口にせず、食べかけの桃を丸ごと口に放り込んだ。

「……んぐっ!?」

「だ、大丈夫ですか!?」

 そうして喉につまらせるのは必定というか予定調和というか。
 もがく太公望の背を撫でながら、名前はその口に水を運んだ。

「……ふう、死ぬかと思ったぞ」

 名前の革袋から勢いよく水をあおり、太公望は長い息を吐く。額を拭う仕草は大仰で、そうでなくともこれが彼の演技であることは明白だった。
 ーーそう、名前には。

「まったくもう……こんなつまらぬことで死なれては泣くに泣けないわ」

 けれど名前は指摘しなかった。それが名前を思ってのことだと、それもわかっていたから。
 太公望は名前を元気づけようとしたのだ。沈む名前を、その身を使うことで。
 だから名前も呆れた風に笑ってみせた。胸がきしりと音を立てようと。泣いて縋ってしまいたくても。
 彼の選択を尊重したいと思った。

「死因が桃とあっては皆に笑われるだろうなぁ……。そもそも主人公として認められん」

「ならば……」

「だがこうも美味いとなぁ……。一息にいくらでも食べられてしまいそうなのがいかんとわしは思う」

「……もう」

 責任転嫁した太公望は「これはなかなか有益だったな」と言いながら、ひとつの巻物を懐から取り出した。
 『るるぶ周』ーーそう題された巻物では『パワースポット巡り』が特集されており、太公望はこれを頼りに各地を巡ることにしていた。『女子旅特集』と始めに書かれているのを無視して。ちなみに、これから向かう予定の蓮花山もこの書物に載っていた。
 太公望は既に訪れた場所へと印をつけ、「次も楽しみだのう」と含み笑う。そうした後で、何かを思い出したような声を上げた。

「どうかなさいましたか?」

「あぁ、手紙を出そうと思ってな」

「手紙?」

「スープーにだ」

 太公望は『るるぶ周』を放り出すと、まっさらな紙と筆をどこからか取り出した。そしてそのまま『スープーへ』と書き始める。
 太公望が行方をくらまして幾年月。久方ぶりの連絡となる予定の手紙……だというのに、太公望の筆には迷いがない。おまけに文面もずいぶん砕けていて、彼らしいといえば彼らしいが……これでは四不象に怒られてしまうのではないだろうか。
 そう思いながら、名前は訊ねた。

「なぜ突然?」

「そろそろ乗り物がないのも不便になってきたからのう」

「まぁ……我が儘な御主人ね」

 名前は眉を下げた。
 けれどそれだけが理由ではないのだろうと名前は思っていた。不便だから四不象を呼ぶ。それだけが本音ではないだろうと。
 彼は四不象に会いたいのだ。地球と同化する、その前に。ただ大切な友ともう一度会いたい。それだけの単純な理由だろうと名前は思った。
 だからこそ名前はまた泣きたくなる。太公望との別離。それを嫌でも予感させられて。
 かといってまた太公望に気を遣わせるのも本意ではない。名前は痛む胸を押し隠し、「これまでならそんな不自由もありませんでしたのに」と、王天君の気配のない彼を揶揄ってみせた。
 すると太公望は大袈裟なほどに顔をしかめた。

「仕方なかろう。王天君には愛想をつかされてしまったのだから」

 王天君。太公望の片割れである彼は長いこと彼の体から離れていた。
 どうやら太公望のパワースポット巡りに嫌気が差したらしいが、真偽のほどは定かではない。
 ただひとつ名前に言えるのは。

「でも彼ならすぐ戻ってきそうな気がします。……彼もまたあなたであることに変わりはないのですし」

「どうかのう……」

 太公望は複雑だといった顔をした。
 王天君ーー彼に関してはいいと思える記憶の方が少ない。初めて彼の存在を知ったのは仙界大戦であったし、それから後も彼は敵として名前たちの前に立ち塞がった。
 何より彼は黄天化を朝歌まで連れ去った。連れ去り、紂王との一騎討ちを果たさせた。紂王を倒すのは人間でなくてはならないという太公望の考えを知った上で。
 結果、天化は亡くなった。名前が気持ちを告げる前に。
 だが、だからといって王天君を憎んではいない。見殺しにしたのは名前だって同じだ。彼の怪我も、その心境も。察していたのにーーいや、だからこそ名前は彼を見送った。彼の意志を尊重したいと思った。そして足枷にならぬようにと自身の想いは胸に秘めることにした。
 そんな名前に王天君を責める資格はない。
 それに何より、名前には彼と過ごした時間がある。伏羲となった彼と。だからか、わだかまりは薄らいでいた。確かに王天君は善い人とは言えないが、悪人でもないと名前は思うのだ。

「……名前は王天君がいた方がいいか?」

 そう思えるようになったのは太公望のお陰だというのに。
 見当違いの問いに、名前は思わず笑みを洩らした。

「……わたしが好きなのはあなたですから」

 太公望さえいればいいーー
 そう言外に答え、名前は彼の額に唇を落とした。
 その頬が朱に染まるのも、照れ隠しに怒ってみせるのも。
 すべてが名前にとって失いがたいものだった。