The house that Jack built
ふたりは食事を終えるとすぐに行動を開始した。
「あなたはどうするの?」
妃弁護士事務所の入る高層ビルの前。車から下りた名前は運転席を覗きこんだ。
ハンドルを握ったまま、零は自身の耳に手をやった。それから、「……うん、僕は警視庁に行ってくるよ」と答えた。
「発破をかけろって言ったのは名前だろ?」
ニッと持ち上がる口角。その悪い顔に、名前は内心「御愁傷様」と合掌する。しかしこれも降谷零に認められている証拠なのだから、江戸川少年には我慢していただきたい。
「わざわざ来てくれてありがとう!」
妃弁護士事務所には予想通り小さな探偵の姿はなかった。いるのは顔を輝かせた毛利蘭と、彼女とはまた違った美貌の持ち主妃英理の2名のみ。
「差し入れなんて悪いわね」と目許を和ませる妃弁護士はとても高校生の娘がいるようには見えない。けれどその眼差しの柔らかさが、娘の友人に向ける温かな声が、彼女が蘭の母であることを表していた。
「毛利先生の弁護をなさる方は今日はいらっしゃらないんですね」
差し入れのサンドイッチを蘭に手渡しながら、名前はなんでもない風を装って訊ねた。蘭のことが心配なのは事実だが、しかし今の名前の目的は彼女ではない。
毛利探偵の弁護士、橘境子。彼女がどのような人物なのかーー何を考えているのか、名前は知らなくてはならない。
「境子先生なら電話に……」
蘭がそう言いかけた時、件の女性は現れた。
切れ長の目を隠す大きな丸メガネ。きっちり着こなされたパンツスーツ。妃弁護士とは対照的に地味な印象の彼女は、しかし名前を見て瞳を和らげた。
「橘境子です」
よろしく、と頭を下げる姿からは彼女の生真面目さが伝わってくる。その様子に不自然なところなどひとつもない。
しかし、それでも。
「改めて見ると本当に毛利さんが事件を起こしたようにしか……」
「そんな、」
検察側が申請した事件の捜査資料。毛利小五郎を犯人たらしめる証拠の数々。その山に、江戸川少年の目は釘付けになった。
彼が降谷零とどんなやり取りを交わしたのか。名前には知る由もない。
ただ別れ際に零が言った通り、挑発をかけられたのは間違いなかった。何せ事務所のドアを開けるやいなや名前の存在に気づくと、咄嗟に少年らしからぬ険しい顔つきをしたのだから。
こうして警察の資料を橘弁護士が持ってこなければ、名前はずっと針のむしろであったろう。
とはいえ橘弁護士に対して感謝の念はない。彼女の言葉に、蘭の顔が曇った。それだけで名前まで眉をひそめてしまう。自分のことは棚に上げてーーとは思うが、反射的なものは仕方がない。
それを察したのか。橘弁護士は慌てて両手を振った。
「あ、いえ、もちろんそんなことあり得ないと思っていますけど。警察からしたら犯人にしか見えないでしょうね」
「そうね……」
暗い声を落とすのは妃弁護士だ。毛利探偵が逮捕された。それ以来ずっと気丈に振る舞っている彼女だが、やはり気が気ではないのだろう。
だからこそ、名前は橘境子の言動に違和感を覚えた。
この違和感が降谷零の言ったものと同一かはまだわからない。が、名前もまた彼女の矛盾が引っ掛かった。
橘境子は弁護士だ。毛利探偵を無罪にする。それが彼女の仕事のはず。いたずらに蘭や妃弁護士の不安を煽る必要はない。
なのに橘境子は他意はないといった風で、しかし間違いなく彼女たちの傷を抉っていた。
それが彼女の生来の気質なのだろうか。一度はそう考え、名前はいや、と否定する。それはあり得ない。
もしそうだとしたら、これまで彼女が弁護した者たちにも同じ態度をとったはずだ。だが名前が調べた限り、彼女にそういった類いの不評は見受けられなかった。敗北続きとはいえ仕事熱心で真面目な弁護士。それが橘境子だった。
ーー彼女は、嘘を吐いている。
それがなんなのか今の名前には特定できない。ただ、臭うとしか。だが名前は自身の本能を信じていた。名前を信じてくれた降谷零を、何より信頼していた。
ーーだから。
「絶対、毛利先生を助けてくださいね」
去り際。名前はそう言って、橘境子の手を握った。彼女の身辺を探るための仕掛けをしながら、彼女の目を真摯に見つめた。友人思いのいたいけな少女を装って。
「……ええ、最善を尽くしましょう」
橘境子の声に躊躇いはなかった。
けれど彼女の目は。メガネの奥に隠された瞳は。
ーー一瞬、頼りなげに震えたのだった。
「あなたの読み通りよ」
迎えの車に乗り込むと、名前は早速切り出した。
「確かに彼女の言動には不審な点があったわ。協力者としては相応しくない、そう判断されても仕方がないと思う」
そう話しながらも名前の脳裏からは別れ際の彼女の姿が消えなかった。微かに過る翳り。それは果たして降谷零の障害となるものだろうか。
降谷零は言った。名前に判断してほしい、と。だから名前は自問した。今最も考えなければならないことはなんなのか。ーー彼女が、今回の事件に関与しているのか。
「……でも、」考えながら、名前はゆっくりと口を開く。
「彼女にはまだ躊躇いがある。……事を起こした後の人間とは思えないほど」
降谷零は黙って名前の証言を聞いていた。口を挟むことなく、ただ話し終えるのを待ってくれた。
そんな彼は車を走らせながら、ちらりと名前を一瞥した。
「じゃあ彼女はテロには関与していない、と?」
わずかな時間だった。けれどその時見せた彼の鋭い眼差し。公安警察としての顔に、名前にも緊張が走る。
「……私はそう思ったわ」
だが名前は発言を翻さなかった。
口にすることで曖昧だったものが明確になる。橘境子。真面目を絵に描いたような弁護士。彼女の一瞬の揺らぎ。彼女はきっと何かを隠している。
けれど。
彼女からは人を殺した罪悪感が感じられなかった。
とはいえ嘘を吐いているのもまた事実。気がかりであることに違いはないから、名前は「とはいえ」と言葉を続けた。
「彼女は以前不正アクセス事件に関わってる。その点からいえば今回の事件と繋がっているのが気になるからもっと詳しく調べてみてもいいけど」
「……いや、いい」
名前の提案に、零は小さく首を振った。
「彼女に発信機はつけたんだろう?とりあえずはそれで動きを見ててくれれば十分だ」
「……いいの?それだけで」
「あぁ」
図ったかのように信号が赤になる。
それまで前方に向けられていた目が名前へと移った。
眩いほどの蒼。それは夕刻の朱色と溶け合ってきらきらと瞬いていた。
「僕は名前を信じてる。だからいいんだ、彼女のことは。それよりも早く犯人を捕らえないと」
「……そうね」
国際会議場を爆破した犯人。公安警察に爪痕を残した者。
その目的はなんだろうか。
サミットを狙ったにしては時期がずれている。ならば警備の甘さを世に知らしめる、日本への信頼を地に落とすのが目的だろうか。ならば他国のーーいや、国内の過激派の可能性もある。しかしそれならば公安警察の監視の目をくぐり抜けたことになる。降谷零の能力を知っている名前には信じがたいことだ。
ならば他に理由があるのだろうか。公安警察だけを死傷させる、それほどの悪意が。
「何はともあれ、まずは目の前の仕事に集中しないと」
考え込む名前に笑みかけ、彼は懐から携帯を取り出した。画面に浮かぶメッセージ。送り主は榎本梓だった。
『ポアロの買い出し、忘れないでくださいね!』
その文章からすら彼女の明るい人柄が伝わってくる。名前も零も、思わず笑いを溢した。