The rose is red


 店員から教えられた場所で、榎本梓の言うところの「大きなアイスクリーム」を探しながら、名前は「あの……」と先程から気になっていたことを切り出した。

「さっき言ってた炎上って……?」

 「梓さんはいいお嫁さんになりそうですね」という透の台詞。それが彼にとってはなんの含みもない、何気ない世間話の一種であることを名前は知っていた。"安室透という男"はそういう性格なのだ。
 それに梓は過剰なまでの反応を示した。びくりと肩を震わせるだけでなく、「軽はずみな言動は避けて!」と注意までしたのには名前も驚かされた。
 梓はその理由として「安室さんはウチの常連のJKに大人気で、この前も私が言い寄ってるってネットで大炎上だったんだから!」と力説した。炎上したというSNSの画面まで突きつける姿には彼女の本気が伺えた。さしもの透ですら呑まれるくらいだ。
 けれど名前からはちょうどその画面が見えなかった。だから気にかかり、わざわざ話を掘り返したのだ。

「あぁ、アレね」

 しかしショーケースから顔を上げた梓の顔には先程のような焦りは見受けられなかった。
 どころか、「名前ちゃんが気にすることじゃないのよ」と交わされてしまう。

「……でも、梓さんに何かあったらわたし、」

 ネットの炎上とは恐ろしいものだ。標的にされると数年経とうが関係なく粘着される。個人情報は暴露され写真は永遠にネット上をさ迷う。名前にとって炎上とはそういう認識のものであった。
 故に梓のことも心配した。確かに名前も彼女に嫉妬することがある。だがそれは彼女の責任ではない。名前が勝手に彼女の明るさや優しさを羨ましく思うだけで。
 つまるところ名前は榎本梓という女性のことが好きなのだ。
 だから心配で、気がかりで、自然と顔は曇ってしまう。

「そ、そんな大したことじゃないから!ね、気にしないで!!」

 立ち止まった名前に、梓は慌てて言い募る。けれどその必死さが逆に虚勢ではないかという疑いに変換された。名前の中では。

「本当に……?」

 じぃっと梓を見つめる。その目は疑わしいとありありと書かれていることだろう。
 現に梓は焦りを滲ませながら名前の手を握った。

「ホントホント!安室さんに言い寄るのやめろとか一緒に働いててズルいとか、まぁそんなこと書かれてるくらいだから!」

「大したことあるじゃないですか!」

 梓の証言。彼女が大したことないと言ったネット上の書き込み。梓は言葉を選んで言ったが、実際はネット上ということもあってもっと物言いは乱暴なものだったろう。
 それを見て、梓がどう思ったか。優しい彼女が何を感じたか。
 想像できないほど、名前は愚かではないつもりだ。だからふつふつとした怒りが心の中で沸き上がってきた。

「そんな、大したことないなんて笑わないでください。わたしも、透……お兄様も、好きであなたといるんですから」

「名前ちゃん……」

 両手でもって包まれた名前の右手。その柔らかな拘束に、名前は左手を重ね合わせた。
 梓の清らかな両手。汚れを知らない無垢なる心。その事実にどれだけ零は救われているだろう。この国の守るべき国民ーーそのひとりが彼女であることに。どれだけ、支えられているだろう。
 今だって。こんな事件の最中だからこそ、彼女との時間を大切にした。この日常が尊いものだと再確認した。
 この国を守りたい。そう名前が思えたのは、何も降谷零の存在ばかりではない。その一部が梓であったり蘭であったりしたからこそだ。
 だから。

「次に何か言われたら絶対にわたしたちに報告してください。もう二度とそんなこと言えなくしてやりますから」

 名前は固く誓った。梓の瞳に。固く誓い、その手をほどいた。
 梓は驚きにか目を丸くしたままだった。それは名前が拘束を解いても変わらず、どうしたのかと首を傾げる。

「……梓さん?」

 顔の前で手を振ってみても反応はない。彫像のように動きを止めたまま。まるで彼女だけ世界から切り離されてしまったかのようだった。
 しかし不安にかられた名前がその肩に手をやると、ようやく梓は「はっ」と息を呑んで、それから深々と溜め息を吐いた。

「安室さん一家ってみんなこんな感じなのかな……」

「え?」

「名前ちゃんも軽はずみな言動には気をつけないとダメだよ!」

 梓はわけのわからないことを言って、名前の前に人差し指を突き出した。メッと子供を叱るかのように。

「絶対勘違いしちゃう人出るからね!私だって危うく飲み込まれるところだったし……」

 梓の発言のそのほとんどが名前には理解できなかった。それが日本語で単語の意味はもちろんわかるのだけれど、文章として彼女が何を言いたいのかはさっぱりだった。
 よくわからないが、とりあえず頭で考えて行動しろということだろうか。
 ひとり納得し、それから名前はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。

「そういえば梓さんが炎上するということはわたしもしているのでは……?」

 名前はSNSというものを利用していない。仕事をする上で必要なら用意するが、今のところそのような指令は下っていないし、必要にかられてもいない。
 SNS上の出来事とは無縁の生活を送っている。だからもし炎上していたとしても気づかない。
 そう思い、名前は梓に訊ねたのだが。

「名前ちゃんが?それはないと思うよ」

 とあっさり否定された。

「でも梓さんは炎上したんですよね?ならわたしだって……妹とはいえ何か言われたりとかあるんじゃ」

 実際のところ名前は透の妹ではないし、血の繋がりなど微塵もない。見た目だって共通点を探す方が難しいだろう。なのに彼と寝食を共にしている。
 安室透に恋する女性たちに敵視されても仕方ない要素しか名前にはない。
 しかし梓の答えは変わらなかった。

「名前ちゃんは大丈夫よ」

 確信に満ちた声。その自信はどこからくるのか。目で訴えると、梓はちょっと笑いながら、「だって、」と言った。

「名前ちゃん相手じゃあ同じ土俵にも上がれないもの」

「ええっと、それは」

「……つまり名前ちゃんに隙がまったくないってこと。可愛いし頭もいいしなんでもできるし……戦う前からみんな逃げ出してるのよ」

 言ってて悲しくなってきた。そう冗談っぽく言って、梓は涙を拭う真似をする。
 そうしている彼女は名前から見ても可愛らしい。女性らしいとでも言うべきか。高校生の名前ならば真似できても、猟犬である名前にはできない芸当だ。

「……そんなこと、ないですよ」

 名前に隙がないのはそう作られたからだ。
 高校生の名前はただの仮面でしかない。女らしい振る舞いもそれが人に好かれやすいから演じているだけ。安室透に恋する女性たちが見ているのは幻覚にすぎない。
 本当の名前を知ったら彼女たちはどうするだろう。
 過った疑問に、名前は内心苦笑した。意味のない問いだ。そもそも前提からしてあり得ないのだから。
 彼女らが恋した"安室透"は実在せず、彼女らが負けを認めた"名前"という少女もこの世にはいない。何もかもが偽者、一時の幻にすぎないのだ。

「そんなことあるよー!それに名前ちゃんってハーフでしょ、そういうのも結構きくんじゃないかなぁ。外国に憧れる女の子って多いし」

「ふふっ、なんですか、それ」

 梓と笑い合いながら、名前は一抹の寂しさを感じていた。
 これまでも潜入捜査の経験はある。誰かを演じ、誰かを騙す、そこにはなんの感情もなかった。
 けれど今は、いずれ訪れる別れに胸が痛んだ。"高校生の名前"が死ぬ日が来るのを恐れた。
 偽者でしかない自分を、嘘にしたくはないと。都合のいい夢を見た。