Come hither, sweet robin


 梓と過ごす時間は名前に安らぎを与えてくれた。
 けれど束の間の休息は儚いもので、それが終われば現実と向き合わなければならない。現実にーー自身がいかに無力であるかということに。

「……どうにかして開示できないものかしら」

 溜め息まじりの独り言。昼に作ったサンドイッチでお腹を慰めながら、名前はキーボードを叩く。
 できるだけ早く、正確なやり方で。犯人に辿り着く方法はないのかと頭を悩ませていた名前の元に一通のメッセージが送られてくる。

「NAZU?」

 メッセージはその筋の情報通からのものだった。
 彼、あるいは彼女は「Norを解析するシステムがNAZUで完成したって噂がある」と教えてくれた。

「NAZUか……」

 不確定な情報だ。けれど手がかりのない現状、無視することもできない。
 しかしNAZUと来たか、と名前は眉間に皺を寄せた。
 NAZU。アメリカの宇宙開発機関。アメリカ、というのが名前の懸念材料だった。
 ここは日本だ。どの道Norの特性上他国での調査の必要性はあったが、全面的に他国を頼らねばならないというのに名前は躊躇った。だが贅沢は言っていられない。

「……?」

 そこで、ふと。名前の中で何かが引っ掛かった。
 しかしそれは名前が掴む前にするりと掌からこぼれてしまう。
 もどかしさ、歯がゆさ。名前は顰めっ面で頭を押さえる。何か、何か手がかりはないのか。
 引っ掛かったのはそう、NAZUという単語だ。日本でも名の知れた施設。それになぜ名前は反応したのだろう。
 その単語に何かを感じ取ったのは名前自身。だから思い出せるはずだーー深呼吸し、名前は記憶を辿っていった。
 NAZU不正アクセス事件。その名を知ったのはなぜだったか。ーー今回の爆破にもかの事件と同じNorが使用されていたからだ。

「同じ……?」

 そこで名前はハッとした。ようやく自分が何に引っ掛かりを覚えたのかわかった。
 同じなのだ。
 確かに先の事件に使われたのもまたNorだった。しかし共通点はそれだけではなかったのだ。
 橘境子が弁護を担当したのもNAZU不正アクセス事件だった。そして日下部検事が担当したのも、また。
 これは偶然だろうか。ーーいや、それにしてはできすぎている。
 名前は手元にある橘境子の資料を見た。彼女の経歴、交遊関係。その中でも一際目をひくのはやはり先述の事件だった。
 NAZU不正アクセス事件。その捜査の最中、橘境子の事務所に勤めていた男が逮捕された。ゲーム会社への不法侵入、及び窃盗の疑いで。
 そしてそれが原因で橘境子は事務所を畳み、フリーの弁護士にならざるを得なくなった。
 普通ならここで彼女は事務員を恨むだろう。だが彼女は事務員とーー羽場二三一と親密な関係だった。それ故に彼女は男の無実を訴えていた。彼が自殺する、その日まで。
 羽場二三一の自殺の原因はわからない。ただ彼が自殺したのは公安警察の取り調べの直後だということだけは確かなようだった。

「……まさか、」

 ーーもしかしたら、橘境子は公安警察を憎んでいるのかもしれない。
 けれど画面に浮かぶ写真の中の橘境子からはなんの答えも得られなかった。きっと本物の彼女も名前に答えはくれないだろう。
 ならばもう、道はひとつしかない。

「あ、名前も休憩?」

 ちょうどよかった、と彼は微笑む。
 絵画のように美しい男は陽の光すら味方につけて、シャンパンゴールドのきらめきを放つ。同時にそれは彼自身に他人との隔たりを生んでいた。
 これほどに清らかで、汚れのないひとを名前は他に知らない。
 だから名前は彼が手ずから入れてくれた珈琲を受け取って、そうしてから静かに口火を切ることができた。

「降谷零に質問があるの」

 安室透でもなく、バーボンでもなく。名前は降谷零という男に問う。問いかける。確かな信頼をもって。

「羽場二三一って知ってる?」

 彼はその名に大きな反応は示さなかった。驚くことも、もちろん。
 なんの表情も読み取れない、夜の海のような瞳で、彼は名前を見下ろしていた。

「……あぁ、」

 一秒、二秒。あるいはそれ以上を置いてから、彼は肯定した。羽場二三一を知っている、と。彼のことを訊ねてもよいのだと、名前を受け入れた。
 そして、ふ、と口角を持ち上げた。

「覚えてるよ、公安が調べた案件だからね」

 仮初めの微笑。薄氷のようなそれは、ほんの少しの過ちで粉々に割れてしまいそうだった。
 なのに彼はその上からさらに仮面を被ってしまう。
 壁にもたれ掛かった彼は、コーヒーカップを片手に、優雅に腕を組んだ。それはこれ以上の追及を拒んでいるようにも見えた。
 名前は掌に爪を立てた。何が正しくて、何が正しくないのか。ーーそんなの、名前にわかりっこない。

「自殺したことも?」

 だから名前は追いかける。追い縋る。距離を取ろうとする彼を。何もかもを仮面で覆い隠そうとする彼を。
 ーー名前は、掴んだ。

「本当のことを言って」

「…………」

 名前は見上げた。美しく、気高い、さみしいひとを。何もかもを捧げたって構わない、名前はそう思っているのに、受け取ってはくれない彼を。
 降谷零が動揺を見せることはなかった。ただうっそりと微笑んで、言う。

「名前は僕が彼を殺したと思う?」

「……いいえ」

 名前はほんの少しの苛立ちを感じながら、しかし一切の迷いなく首を横に振った。

「あなたならそんな方法は取らない。あなたなら……もっとうまくやってみせる、絶対に」

 見くびらないでほしい。名前がどれだけ彼のことを見つめてきたのかを。降谷零を追いかけてきたのかを。ーー彼の力を信じていることを。

「私の知るあなたはそういう人よ」

 言い切って、名前は口を閉ざした。
 言いたいこと、伝えたいこと、それがすべて正確に彼に届いたかはわからない。でも今の名前の答えはこれだった。これしかなかった。
 ーー彼から、決して視線をそらさないことしか。
 逆に彼の方が目を伏せた。長い睫毛に彩られた瞳の奥。それは変わらず海のように遠いものであったけれど、

「……重いなぁ」

 そう呟く声には、笑みが混じっていた。降谷零のような、安室透のような笑みが。
 再び顔を上げた彼の顔は日の光を纏っていた。細められた目は夏の水面のようだった。緩んだ口許からは気恥ずかしさのようなものが滲んでいた。
 少年のような、けれど大人の顔で笑う彼に、名前も微笑んだ。

「そのわりには顔が笑ってるけど」

「……うん、」

 彼は顎を引くと、名前からコーヒーカップを取り上げた。自分が与えたくせに。そして2対のそれをテーブルに置くと、代わりとばかりに名前の背に手を回した。

「……零?」

 訝しむ名前を無視して力は増す。もう名前には彼の胸の中の闇しか見えない。

「……少しだけ、このままで」

 けれどそう彼が言うのだけは聞こえたから、名前も手を伸ばした。彼よりはずっと頼りないであろう手で、彼の背中を撫でた。
 彼はそれ以上何も言うことはなかった。ただ黙って名前を抱き締め続けた。
 その姿に、名前の胸が痛む。これが彼の精一杯なのだとそう察してしまったから。
 そうあるしかできなかった彼を可哀想だとは思わない。ただやっぱりさみしいとだけ思った。あまりに気高く清らかで真っ白い彼が。ただひとり神さまである彼が。
 さみしいと、名前は思った。