Oh! Deary, deary me


 次に見た時には彼はもう公安警察の顔をしていた。

「人使いが荒いんだから……」

 本当に頼ってほしい時には頼ってくれないのに。
 そう頬を膨らませながら名前はひとりごちた。珍しく、RX-7の運転席で。
 時刻は昼過ぎ。暗雲の垂れ込める空の下、名前は日比谷公園に車を横づけし、ご主人様の帰りを待っていた。
 「ちょっと出てくるから車を頼めるか?」彼がそう言うから名前は従ったのだけれど。

「公園って……」

 いったい何の用があるのだろう。
 曇天に焦りを覚えつつ、名前はただひたすら待ち続けた。

「すまない、遅くなった」

 彼が車から出てどれくらい経った頃か。
 時間にしたらそう大したものではないだろう。広い公園内に入ったわりには早いといってもいい。
 けれど不安に駆られていた名前には実際よりずっと長く感じられた。

「遅いわ、もう」

 曇り空は湿り気を帯び、ぽつぽつと雨が降り出していた。彼の肩口からも弾かれた水が伝い落ちた。
 しかし彼は濡れたシャンパンゴールドを無造作に掻き上げる。雨に降られたのなんか本当に気にしていない風で。
 だから名前はバッグからタオルを取り出した。こうなるような予感はしていたのだ。
 名前は溜め息をひとつ吐き、手を伸ばす。

「風邪引いたらどうするの」

 飼い犬になった当初の頃は、無頓着なのは名前の方で、飼い主の安室透があれこれと世話を焼いてくれていた。
 なのに今は名前におとなしく拭かれながら、彼はニッと口角を上げる。

「どうするって、看病してくれるだろう?」

「それはそうだけどそうじゃなくて、」

 悪戯に瞬く目に、名前は声を落とす。

「……心配なの、それだけ」

「……うん、わかってる」

 名前が溜め息を吐いたのは何もそれだけが理由じゃない。案じているのは体を壊すことだけじゃない。
 無理はしないでほしい。そう名前は訴えた。けれど彼は「わかっている」と言いながら、けれど「ごめん」と続けた。
 名前が彼を守りたいと思うのと同じように、彼にもまた譲れないものがある。その答えもやはり名前の思った通りで、もうひとつ溜め息がこぼれる。

「どうせ今回の事件が解決したって後始末に追われるでしょうに」

「否定できないのがつらいなぁ」

「笑い事じゃないわよ」

 周りのことも考えてほしい。名前や彼の部下や……降谷零を知る人たちが、どれだけその行動にやきもきさせられているか。降谷零という存在は唯一無二であるという自覚を持ってもらいたい。
 なのに本人ときたら……名前は顰めっ面のまま車を発進させた。とにかく今は早いところ彼を温かいお風呂に突っ込んでやらなければ。
 そう名前は決意していたというのに、事件の犯人はそれすら邪魔をしてくる。
 次第に雨脚が激しくなる中を走る車たち。そのひとつ、名前の前を走っていたものが突然、ふらりとよろめいた。

「……っ」

 それだけならよかった。それだけなら、ただのありふれた景色のひとつに過ぎなかった。
 なのにその車は急ブレーキをかけて止まってしまった。信号が赤になっていないにも関わらず、十字路の途中で。
 このままでは車に突っ込んでしまう。咄嗟に名前はハンドルを右に切った。ブレーキを踏んでは玉突き事故になりかねない。そう考えたからだった。
 けれど。
 信号は青だった。隣の右折レーンは空いていて、向かいから車が来るはずはなかった。
 なのに、前方から猛スピードで影が伸びる。様子がおかしいのは名前の前の車だけではなかったのだ。
 ーーしまった。
 思わず、息を呑んだ。迫りくる車体がいやにゆっくり見え、ただ名前は彼を守らないととだけ思った。
 でも。

「……こっちだ!」

 勢いよく手が引かれる。ハンドルごと、左へと。
 名前の手に自身のそれを重ねた彼は、鋭い眼差しで助手席からハンドルを切っていた。
 突然の方向転換にタイヤが唸りを上げる。それは名前の心臓も同じで、車と車の狭い間を通り抜け、ブレーキをかける頃にはすっかり体が硬直していた。
 しかし背後ではまだ混乱が続いている。何かが割れる音。甲高い悲鳴。ざわざわと騒ぎ立てる風。
 車外にまろび出た名前は、そこで立ちつくした。

「なんなの、これ」

 呆然と、名前は呟く。
 目の前に広がる光景。それは秩序だったこれまでの日常とはかけ離れた世界であった。
 制御を失い、道の途中で転がる車。そこからほうほうの体で逃げ出す人々。だが混乱は路上以外でも広がっていた。
 信号待ちをしていた人の携帯から火花が飛び散る。かと思えばどこかのマンションからは火の手が上がった。そしてコンビニからは小さな爆発音と共に人々が逃げ出して来る。
 それを見ているしかできない名前の隣で、彼もまた厳しい顔つきで辺りを見回した。

「わからない。だがこれも……」

「同一犯だっていうの」

 彼は答えなかった。顎に手を当て、深く思考に沈んでいた。
 一度は公安警察への復讐かと考えた。だがこれでは目的がわからなくなる。こんな広範囲のテロ、日本を混乱させるためとしか思えない。やはり海外か国内の過激派の仕業なのだろうか。
 名前の頭ではこれが限界だった。だが彼の選んだ協力者は違う。悔しいことに、小さな名探偵は降谷零に答えを与える。

「そうか、IOTテロか」

 なんて子だ。そう言って、彼は耳につけたワイヤレスイヤホンから手を離した。

「IOTって……この間ポアロでケーキが溶ける騒ぎの時の、」

「そう、それだよ」

 IOTーーInternet of Thingsとはインターネットに接続されたモノ同士が情報のやり取りをすることを意味する。そして先日ポアロで起きたケーキが溶ける事件の犯人がこのIOTを使った家電であった。離れていても携帯から家電を操作、管理できる優れものーーというのがこの家電の謳い文句だ。
 それを利用したのが今回のテロであると降谷零はーーいや、江戸川コナンは推理したらしい。
 彼は笑いながら、「行き先変更だ、名前」と言った。

「え?」

「部下に伝えなきゃならないことができた。名前が教えてくれたNAZUの件もそうだし……無実の人をこれ以上拘束するわけにもいかないしね」

「それじゃあ……!」

 名前の目が輝く。無実の人。今それが指し示すのはひとりしかいない。
 慌てて今度は助手席に乗り込む名前に、零は笑みをこぼす。

「そんなに喜ばれると妬けるなぁ」

「え?」

「なんでもないよ」

 くすりと笑い、しかしすぐに唇を引き結ぶ。

「ちょっと無茶するけど目をつぶっててくれよ」

 その言葉通り。
 渋滞する車たちの間を、RX-7は速度を緩めることなくすり抜けていった。