London Bridge is falling down
降谷零の元に入った新たな一報に、名前は眉をひそめた。
「統括検事が?」
昼過ぎに都内各地で発生した騒ぎ。それがほぼ終息した夕方近くに事件は起こったらしい。
岩井紗世子統括検事。彼女の携帯がIOTテロにより発火し、彼女もまた軽度ではあるものの火傷を負ったのだ、と。
岩井検事といえば名前も覚えがある。昨年あったゲーム会社での窃盗事件。羽場二三一の事件の検事を勤めたのが彼女であった。
しかも彼女の携帯へアクセスしたNorにバグが見つかったらしく、それを頼りに発信源を追跡する算段なのだという。
「でもそれって出来すぎてない?」
作為的な臭いがする。そう、今回の事件、起きたこと、関わる人々、それらは羽場二三一に収束していくのだ。
Norを用いてNAZUに不正アクセスしたのは、羽場二三一が窃盗を行ったゲーム会社の社員だった。毛利小五郎の弁護をするのはその社員の弁護士でもあった橘境子で、検事を勤めるのも同じく日下部誠で。羽場二三一の検事だった岩井紗世子が今回のテロの被害者となり、そして事件解決のための手がかりとなった。
ーーあまりに共通点が多すぎる。
「あぁ……それは僕も気になってた」
名前が気づくくらいだ。当然、透もきな臭さに引っ掛かりを覚えていたらしい。
「だが橘境子に不審な様子は見られないんだな?」
「ええ、相変わらずよ、彼女は」
ただ江戸川少年も彼女に何か感じるものがあるようで、密かに橘境子の調査を依頼していた。やはり、彼女には何かあるのだ。
現に、今も。
『あれは二三一のせいじゃない!』
イヤホンの向こうで橘境子の叫び声がする。血を吐くような、叫びが。
それは到底あの地味な印象の彼女から発せられたものだとは思えなかった。それほどに苛烈で、痛みを孕んだものだった。
『人にはね、表と裏があるの。君が見ているのは、その一面に過ぎない……』
どこかぼうとした、遠くに馳せられた声に、名前は目を伏せた。
表と裏。それは名前には覚えのあるーーありすぎる言葉だった。安室透の家族の名前と、組織の犬である名前と。そのどちらもが名前で、名前以外の何者でもないけれど、両者の間には越えられないほどの高い壁がある。
けれどそれはきっと彼も同じだ。
名前と同じものを盗聴しているはずの彼。その顔に変化は見られない。何を思っているのかも。
表と裏。安室透であり降谷零でありバーボンでもあるひと。もしかするとそれ以外の彼もどこかにいるのかもしれない。だからきっと名前も彼の一面しか知らないのだ。
でも、と名前は反論した。心の中で、橘境子に向かって。
それでも名前は、彼と共にありたい。名前の知らない彼がいようと、名前の知る彼が幻だろうと。やはり彼がいなければ名前もまたここにはいなかったのだから。
名前は彼の手に触れた。指先で触れ、びくりと震えたそれに、けれど手を重ねた。
名前が何か言うことはなかった。彼もまた、沈黙を守り続けた。
けれどそれで十分だった。十分すぎるほどに伝わった。彼が名前を受け入れてくれているのだと。奇跡のようなそれに、名前は泣きたくなった。
『外で娘さんから聞きました。毛利さんが不起訴になったなら、私はもう用済みですね』
そうしている間にもイヤホンの向こうでは話が進んでいく。
橘境子の声、それから妃弁護士の戸惑い。それから、白鳥警部と江戸川少年の会話。NAZUではNorユーザーを追跡するシステムが完成していたのだ。そう白鳥が少年に語っているのを、名前は零のイヤホンに耳を寄せて聞いていた。
『さっそく明日から解析してもらいます。NAZUは今日、太平洋に<はくちょう>を着水させるミッションに追われてますからね』
『あ、それ無人探査機のことだよね?』
『ああ。そんな日とサミットが重なって、警視庁も大わらわだよ』
『そっか。サミットも今日からーー』
そこで一度江戸川少年の声が途切れる。何かに気がついたかのように。
そして次に彼が声を発した時には、もうそこに迷いはなかった。
『<NAZU不正アクセス事件>の詳しい資料をすぐにスマホに送って!』
そう言い残し、少年は足音高く駆けていく。呼び止める蘭に構うことなく。
名前は咄嗟に顔を上げた。
路地裏に停めたRX-7。その助手席からは妃弁護士の事務所の入るビルが微かに見えた。夕日を反射し、それ自体がひとつの星のように輝くビル群。そのなかから飛び出す小さな影。
それが目の前を通り過ぎたあと、零はゆっくりとRX-7を発進させた。
だがそれはすぐに止められてしまう。他でもない、江戸川少年に道を阻まれたことで。
「僕が来ることがわかってたようだね」
零はブレーキをかけると、車を路肩へと寄せた。
静かな音を立てて降りていく、ふたりの間の隔たり。開いた窓からは、その緊張感には相応しくない爽やかな風が吹き込んでくる。
「初めに違和感に気づいたのは、あのときだよ」
江戸川少年は己の推理を語る。自身の携帯に遠隔操作アプリが仕込まれていたことを。それが公安警察によるもので、少年の行動を監視するためであったろうことを。感情を抑えた声で語った。
「せっかくわかったのに、なぜアプリを抜かなかった?」
「今から犯人に会うからさ」
ごく自然な降谷零の疑念に、少年は事も無げに答えた。本当に、なんの喜びもなく。
少年はそれまで降谷零を見ることなく話していた。まるでそうすることを避けるかのように。そしてそれはきっと正しかった。
「動機は安室さん、アンタたちだ!」
降谷零を真正面から見る少年の目。その鋭い視線に、声に、名指しされた彼は息を呑む。
いや、彼だけではないーー名前もだ。
「事の発端はNAZU不正アクセス事件だよ」
やはり、そうだったのだ。
名前はぎゅっと掌を握り締めた。少年の声は降谷零を責めるようなもので、しかし彼はまったくの平静だというのに。
名前の胸は、ナイフを突き立てられたかのような錯覚に見舞われていた。
「それは名前も気にしてた……」
言いかけ、零は目を見開く。何かを諒解した、そんな風に。
「羽場二三一か……!!」
これまで彼は事を大きく捉えていた。それはあまりに事件が大きく、日本という国そのものに損害を与えるものであったからだ。だから国内の過激派や国際テロリストに目をつけていた。
だが、犯行の動機が公安警察にあること。NAZU不正アクセス事件がきっかけであること。それらを繋ぎ合わせるものはひとつしかない。
しかし、と名前は記憶を辿る。橘境子に怪しい行動は見られなかった。不審な接触もなければ、彼女自らが事を起こす様子も。
ならば彼女以外の誰か、ということになるのだろうか。
思考する名前をよそに、江戸川少年は言葉を続ける。
「羽場さんは去年、拘置所で自殺してるよね?」
「ああ……」
呟き、遠くに目を馳せる彼は何を思っているのだろう。何を思い出しているのだろう。
「ちょうど、去年の今日だったな……」
「去年の今日……!?」
零の思わぬ言葉に、少年の目が見開かれる。名前も驚き、隣を見上げた。
去年の今日。5月1日。羽場二三一の命日。そして今年は東京サミットの開催日でありーー無人探査機<はくちょう>が地球に帰還する日でもある。
そこに思い至り、3人は顔を見合わせた。
「きっとまだ犯人の復讐は終わってない!!」
スケートボードをターンさせた少年の後を零も追った。彼らしくもなく、焦りの滲む顔で。