For want of a nail
一連のテロの犯人は日下部誠検事だった。
彼は自身が担当した『NAZU不正アクセス事件』の捜査資料を利用し、今回のサイバーテロを働いた。
だが彼にも誤算があった。NAZUでは先の事件を受け、Norユーザーを追跡するシステムが完成していたのだ。だから彼はわざとバグを作ったNorで上司である岩井検事の携帯を発火させた。自身が犯人とわからぬよう、ダミーを警察に特定させるために。
少年の淀みない推理に、検事の顔にも狼狽が広がっていく。それはもう自供したも同じだった。
「私の物に勝手に触れるな!」
しかし日下部検事は諦めていなかった。
彼は降谷零に体当たりをすると、奪われていた携帯を取り上げるやいなや、零を突き飛ばそうとした。
もちろんそれで倒れる彼ではなかったけれど、隙が生まれたのもまた事実。
その間に検事は逃げ出していた。
検察庁の裏口を出、駐車場へと走り去る背。
その影を追いながら、少年は切羽詰まった声で言う。
「あのスマホにノーアを使った痕跡があるんだ!」
「まったく!」
顔をしかめた零は、素早く名前に視線をやった。飼い主に牙を向かれ、静かな怒りを滲ませている名前へと。
「名前!」
彼はそれ以上のことは言わなかった。命令も、何もない。ただ名前を呼ばれただけ。彼のつけてくれた、特別な名を。
けれどそれで十分だった。名前にはそれで伝わった。行け、と。確かな信頼を含ませた視線は、名前ならやれるとその成功を疑っていなかった。
ーーだから、応えよう。
「……っ」
名前は跳躍した。整列する車両の間を逃げる鼠へと。
宵闇のなかで、男の影は小さなものだった。けれどだからといって目算を外す名前ではない。目も鼻も脚も、彼よりずっと性能はいいのだから。
他でもない、降谷零に認められた体を使い、名前は地を蹴った。思いきり飛び上がり、その勢いのまま、男を蹴り飛ばす。
「……ぐっ」
呻き声。しかしなおも逃避を企てる体に、名前は腕を回して引き起こす。しっかりと首は固定したまま。
「このままくびり殺されたくなければおとなしくなさい」
耳許で囁くと、男の顔が歪んだ。痛みとは違う理由で。
「お前は……いったい」
「日下部検事。あなたがテロを起こした動機は、本当に公安警察なのか!?」
名前へ疑念を漏らした日下部検事ではあったが、彼の前に降谷零が立つことでその思考は塗り替えられた。
「サミット会場が爆破され、アメリカの探査機が地球に落ちれば、公安警察の威信は完全に失墜する……」
「なぜそこまで公安警察を憎む?」
降谷零のこの言葉に、項垂れていた日下部検事は顔を上げた。
「お前らの力が強い限り、我々公安検察は正義をまっとうできない!」
降谷零を睨み付ける目。その瞳には怒りが溢れ、その言葉からは彼の味わってきた無力感が感じ取れた。
しかしだからといって今回の行為を認めるわけにはいかない。
「正義のためなら人が死んでもいいっていうのか!?」
そう、少年が語気も荒く問いかける。けれどそれにも日下部検事は顔色を変えない。
「民間人を殺すつもりはなかった!」
もう言い逃れをする気はないらしい。日下部検事は即答すると、自身の計画ではできうる限り被害の小さなものを選んだのだと告白した。聳え立つ警視庁を見上げながら。
サミット会場の爆破では公安検察しかいない時間を。死亡者が出にくいからIOTテロを。カプセルの落下地点も警視庁を。彼は自身の正義に則って選択を重ねたのだ。
そして民間人を避難させるために警視庁を停電させ、その周辺ではIOTテロを起こし、現場に民間人が迷いこむことがないようーー民間人を殺すつもりはなかった、その言葉通りに彼は行動した。
だが、その正義を小さな探偵は認めなかった。
「それでもだれかが犠牲になる可能性は十分あったはずだ!」
それは言い訳だーー江戸川少年の叫びに、日下部検事も応える。
「正義のためには多少の犠牲はやむを得ない!」
「そんなの正義じゃない!」
少年は強い言葉を叩きつける。
守るべき国民からの否定。小さな少年の真っ直ぐな眼差しに、日下部検事は瞳を揺らし、ガクリと膝を折った。
正義を、信念を、生きる理由を否定された男は力なく両手をつき、血を吐くようにして声を絞り出す。「私の『協力者』だって犠牲になった……!」と。
「羽場さんはやっぱりアンタの『協力者』だったんだね」
少年の推理に、日下部検事は目を見開く。なぜこの少年が知っているのか。
その問いに、彼は落ち着いた声音で答えた。きっかけは日下部検事の携帯だった。今時珍しく入力音を消していなかったそれは、お陰で暗証番号が聞き取れたこと。それが『88231』ーー羽場二三一を表すものであること。
それにより、少年は答えを導き出した。
羽場二三一は公安検察の協力者だった。そして彼は日下部検事の依頼で、捜査のためにゲーム会社に侵入し、証拠を盗み出そうとした。そこを公安刑事に捕まった。
「公安の『協力者』は違法で危険な調査を余儀なくされる。だからこそ、公安と『協力者』の関係は肉親よりも強くなる。決して金だけで繋がった関係じゃない。使命感で繋がった、まさに一心同体だ……」
日下部検事の言葉に、名前は目を伏せた。
名前には、少年のように彼を断罪することができなかった。
確かに彼のことは憎い。降谷零を危険に曝し、彼の部下の命を奪った。許しがたい暴挙だ。
けれど、名前には彼の気持ちがわかってしまった。
名前も、降谷零のためならばなんだってする。その命はもちろん、犠牲を払わなければ彼を救えないというなら名前は迷ってしまうだろう。名前は江戸川少年や降谷零ほど強くはないのだから。
だから、少年の言葉は名前自身にも向けられているかのようだった。
名前が胸に痛みを覚えている間に、日下部検事の独白は終わっていた。
公安検察の『協力者』と知りながら、羽場二三一を起訴し、あまつさえ彼を自殺に追いやった公安警察への憎悪。それは警視庁を見上げるたびに彼の中によみがえっていた。
「それで警視庁に探査機を落とす計画を……?」
零の問いに、日下部検事は力なく頷く。続く、少年からの問いーー無実である毛利小五郎を起訴させないためにIOTテロを起こしたのかという質問にも。
「もうこれ以上罪を重ねちゃダメだ。不正アクセスして変更したコードを教えて!」
これまで力を失っていた日下部検事。だが少年の訴えに、再び炎が点る。
「公安検察は正義を守るプロだ。羽場のような正義が失われちゃいけない!」
身を乗り出す検事に、名前は眉をひそめる。大した抵抗ではないが、あまり暴れられては困るのだ。何しろ彼からコードを聞き出さないことにはどうしようもないのだから。
顔を曇らせる名前を一瞥し、零は日下部検事の肩に手を置いた。「コードを言うんだ」彼の静かな声は、却って日下部検事の炎に勢いをつけた。
「私を逮捕すればいい!取り調べでは一切を黙秘する!!」
「日下部検事、」
警察を煽るような台詞を吐く男に、少年は携帯の画面を向けた。
画面にはある場所の映像が映っていた。地面に書かれた特徴的なマーク。それはその場所がビルの屋上、ヘリポートであることを示していた。
そこにはひとりの男が立っていた。『日下部さん』と親しげに検事を呼ぶ青年が。
「バ……バカなっ!?」
それは自殺したはずの羽場二三一であった。