Humpty Dumpty
羽場二三一は生きていたーーそれも、公安警察の保護下で。
公安検察の協力者から公安警察の協力者となった羽場二三一。
そこに名前は微かな恐怖心を抱いた。彼は心から日下部検事を説得していた。日下部検事への感謝にも嘘は見当たらない。
だが、だからこそ彼が日下部検事の憎む公安警察の協力者となり、日下部検事からコードを聞き出したのがーー聞き出し、満足げに笑ったのが、名前に底知れない男だと思わせた。
彼に嘘はない。公安検察の協力者であることも公安警察の協力者であることも、彼にとってはなんの矛盾もないのだろう。
羽場二三一の言動に言い知れぬ不安を感じた名前ではあるが、彼のお陰で日下部検事からコードを聞き出すことができた。とりあえず危機は脱したのだ。
名前は安堵し、日下部検事の拘束を解いた。
だが事件は終わっていなかった。
ーーカプセルの軌道修正ができていない。
その報せに、ヘリポートに上がった江戸川少年はある提案をした。
「なんてこと考えるんだ」
驚き、零は名前と顔を見合わせた。けれど少年から「他に方法ある?」と聞かれ、零は笑った。そしてすぐに彼は部下に電話をかけた。
「風見、至急動いてくれ。……ああ、公安お得意の違法捜査だ」
必要最低限の会話。それを終えると、零は名前に向き直った。ひどく、真剣な目で。
「名前、ここにいても君にできることはない。だからーー」
ここから立ち去っても構わない。
そう、彼は言った。
これが命令であったなら名前は従ったろう。あるいはその目が冷たいものであったなら。
だがその瞳は変わらず澄んだもので、それでいて温かで、名前を気遣っているのがありありと伝わってきた。
ここに名前の用はない。だから立ち去ってーー安全なところまで逃げてくれてもいい。
名前の飼い主はそう言うのだ。
けれど、いや、だからこそ名前は静かに首を振った。いいえ、と。
「もうとっくに選んでいるもの。今さら行くところなんてないわ」
もしも少年の作戦が失敗したとして。もしもカプセルが降ってきたとして。もしも名前の命がここで尽きたとして。
それでも名前に後悔はなかった。それよりも降谷零をこんなところで死なせる方がずっとつらかった。
だから名前は零の手を握った。冷えきった指先を。
「あなたならできるって信じてる。あなたとなら、生き延びられるって」
「名前……」
一瞬、彼の目が泣きそうに揺れた。潤んだ瞳はささめく湖のようだった。
「……ああ。約束する」
彼はその目を一度瞑ると、次に顔を上げた時にはいつもの冷静さを取り戻していた。
そして彼はその言葉通り成し遂げてみせた。
ドローンでカプセルまで接近された爆弾。それを起動させ、カプセルのヒートシールドを外したのだ。パラシュートは開き、カプセルは警視庁上空から何処かへと流されていった。
「成功したよ」
その言葉に、名前はほう、と息をつく。ドキドキしすぎて心臓が破裂するところだった。
少年も「よかった」と胸を撫で下ろしたところで、屋上に公安刑事たちがやってきた。日下部検事を連れたまま。
「降谷さん。逮捕、連行します」
「ああ」
零が頷くことで立ち去ろうとした彼らを少年は引き留めた。そして再び羽場二三一の映像を出す。
『日下部さん……私たちは今でも一心同体です』
「……ああ」
日下部は切なげに、けれど憑き物が落ちたかのように微笑んだ。それだけで彼にとって羽場二三一という存在がどれほど大きかったのかわかった。
だが一心同体というなら羽場二三一は日下部検事に従うべきだった。そうすれば日下部検事がこんなテロを起こすこともなかったし、検察には協力者を御すことができないと判断されることもなかったろう。
ーーだが、これはあくまで名前の推測にすぎない。
もしかしたら羽場二三一という男は最初から公安警察の協力者で、日下部検事に接触したのも理由あってのことかもしれない。そういった可能性もあるのだ。
そしてその想像を肯定するかのように、屋上に現れた橘境子は震える声を精一杯抑えながら問いかけた。
「公安は、裏では私たちを番号で呼んでいるんでしょ?私は『2291』よね?」
拳を握り、はらはらと涙をこぼしながら、彼女は問う。羽場二三一はーー公安警察の協力者である彼は『何番なのか』と。
彼女は疑っているのだ。羽場二三一という存在を。それを作り出したのは公安警察ではないのかと。
橘境子が羽場二三一を事務員にしたのが四年前。だが二年前に彼は日下部検事の『協力者』になった。橘境子が敵対する、公安検事の『協力者』に。
羽場二三一の監視を命じたのは公安警察だった。けれど本当に監視されていたのは自分なのかもしれないーー橘境子が愛した男は、最初から存在しなかったのかもしれない。今の彼女には何もかもが怪しく、仕組まれていたように思えるのだろう。
けれど彼女は強かった。
「思い上がるな!」
『協力者』という身分から解放された彼女は、羽場二三一の居場所が書かれたメモを躊躇なく投げ捨てた。
「アンタの『協力者』になったのも私の判断!アンタを裏切ったのも私の判断!彼を愛したのも私の判断!私の人生全てを……アンタたちが操っていたなんて思わないで!!」
彼女は泣いていた。泣きながら、それでも否定した。彼女のこれまでの人生が不自由であったかのように話す風見刑事に向かって。
そして彼女は「さよなら」とだけ言い残し、去っていった。幻のような恋人に別れを告げて。
「…………、」
名前はその姿を見送り、目を伏せた。
似ていると思った。橘境子、彼女と自分が。正反対で、だからこそ似ている、と。
名前も自分の意思で選択したからこそ今があると思っている。
けれどそれがたとえ降谷零の思惑通りなのだとしても、彼の都合のいいように利用されているのだとしても、名前は彼女のように手を離すことができそうになかった。
この関係は作為的なものかもしれない。だがそうだとしてもーー名前の知る彼が幻なのだとしても、名前が与えられたものが真実であることに変わりはない。彼と出会わない過去よりも、彼と出会った今の方が名前はずっと幸せなのだから。
「名前、」
だから名前の手を握る指先に応えた。淡い微笑を浮かべて。
「大丈夫よ。だからーー」
この手を離さないで。
名前の願いに、彼は深く頷いた。
降谷零が語らない以上、名前に真実はわからない。
けれどそれでよかった。それでも名前が彼を信じるのに変わりはないのだから。