Tweedledum and Tweedledee


 こうして事件は終息したかのうに見えた。いや、この時誰しもがそう思っていたろう。
 だが降谷零の元にかかってきた一本の電話により、束の間の安息は打ち破られた。

「……何!?カプセルが!?」

 カプセルの軌道は爆発により確かに変えられた。
 だがお陰で別の問題が生まれた。
 カプセルの新たな落下予測地点。それが東京湾の埋め立て地であるとーー現在三万人が避難しているエッジ・オブ・オーシャンであると判明したのだ。

「クソッ!」

 エッジ・オブ・オーシャンには毛利蘭も避難しているーー焦りを滲ませ舌を打つ少年に、零は「どうする?」と問いかけた。

「時間がないぞ」

 降谷零は踊り場に立つ少年を振り仰ぐ。彼に手を引かれていた名前も、また。
 少年は厳しい表情のまま零を見下ろした。

「安室さん、今度はボクの『協力者』になってもらうよ!」

 そこに一切の躊躇はない。今からカプセルがカジノタワーに落ちるのを防ぐ。それはなまなかなことではない。恐らく大きな危険を孕むものであろう。
 だが少年は真っ直ぐ零を見つめた。賭けに、少しも躊躇ってはいなかった。
 名前は零の手を引いた。ーーやりましょう。そう、目で伝える。この後どうなろうと構わないと。降谷零とならばなんだってできると。降谷零の守りたいもののためならば、と。

「……仕方ないな」

 零は降参だとでもいうように溜め息を吐く。けれど次に少年を見上げる目には輝きがあった。
 名前にはそれが喜びのように感じられた。なぜだかはわからないけれど。追い込まれているというのに、降谷零はむしろ生き生きしているように見えた。

 闇夜を切り裂き駆け抜けるRX-7。テロにより閑散とした市街地をあっという間に過ぎ、名前たちはカジノタワーへと向かっていた。
 だが事はそううまく運ばない。

「この先は渋滞だよ!」

 降谷零の隣、名前の腕の中で少年は叫んだ。彼の携帯にはこの先の混雑状況が映し出されている。
 皆、避難場所であるカジノタワーへと向かっているのだろう。
 けれど零の顔に焦りはない。スピードを上げたまま前を行く車たちを次々と追い越していく。車両と車両の間を、糸を通すような繊細さでもって。
 そして彼はにやりと笑うと、アクセルをさらに踏み込んだ。リミッターの解除されたRX-7は180キロを越えても加速し続ける。お陰でメーターの針は可哀想なほど震えていた。

「……手を離しちゃダメよ」

 この方が守るのに都合がいいからと、名前の腕に預けられた少年の体。ほんの少し力を籠めれば折れそうな体躯をしっかり抱え込み、名前は少年の耳許で囁いた。
 少年は素直に頷いた。まったく、珍しいことに。
 だがそれでいい。
 名前は満足げに笑うと、改めて少年の体を固定した。
 名前にはこの先の展開がなんとなくわかった。道の先にキャリアカーを見つけた時から。その後ろで詰まる車両を見た時から。なんとなく、予感はしていた。

「……いくよ」

 彼は名前を一瞥すると、思いきりハンドルを切った。それは片側のタイヤが浮くほどであった。
 彼はそんな無茶な体勢のまま車両の群れに突っ込んだ。

「……っ」

 間を縫うように走り、RX-7はジャンプ台のように斜めに傾いたキャリアカーの荷台を駆け上がる。空高く。
 体を襲う浮遊感。それからモノレールの上という不安定な着地。そこからの墜落と、地面に叩きつけられる衝撃。
 けれど名前に恐怖はなかった。不安も。ただ名前は名前にできることをーー降谷零が願うだろう、少年の無事だけを考えていた。そのために宙に投げ出されかけた少年の体を、自身のそれで押さえつけた。少年が傷つかぬようにと。

「……ふう」 

 RX-7は渋滞に見舞われた高速道路から逃れ、モノレールの走行路へと落ち着いていた。
 しかしカジノタワーが見える頃、車内のスピーカーから降谷零を呼ぶ声が聞こえてきた。それはひどく切羽詰まったもので、嫌な予感に名前は表情を固くした。
 そしてその予感は残念なことに当たっていた。

『カプセルのパラシュートが外れて加速しています!』

 降谷零の部下、風見からの連絡。零が苛立ちまじりに続きを促すと、彼は『あと五分でカジノタワーに落下します!』と答えた。
 あと五分。ここからカジノタワーまで辿り着けたとして、その後できることといったら何があるだろう。五分とはそれくらいに絶望的な数字だった。
 これにはさすがの名探偵も動揺を隠しきれない。「クソッ」と吐き捨てると、鬼気迫る形相で携帯を操作した。
 だがそんな少年の目にひとつの目映い光が飛び込んでくる。鮮烈なそれに顔を上げた少年は、驚きに目を見張った。

「安室さん!」

 思わず身を乗り出す少年を、名前は慌てて引き戻した。

「危ないじゃない」

「けど……!」

 どうするの、と少年は降谷零を仰ぎ見る。
 RX-7の進行方向、前方からモノレールが迫ってきていた。
 このままではどちらも無事では済まないだろう。何か策があるのかと焦躁感に駆られる少年に、名前は囁きをひとつ落とした。

「大丈夫よ。……彼なら、きっと」

 だからおとなしくなさい、と名前は少年を抱え直した。
 その様子を一瞥し、降谷零は笑う。それは決して諦念からくるものではない。覚悟と自信。それに裏打ちされた笑顔は、どこか楽しんでいるようにさえ思えた。
 少年は驚きに目を見張った。あまりに落ち着いた様子の名前に。そしてこんな時に笑みを浮かべる降谷零に。
 そんな少年を置き去りにして、零は再びアクセルを踏み込んだ。その勢いはマフラーが火を噴くほどで、少年は息を呑んだ。
 ぐんぐんと縮まるモノレールと車の距離。次第に大きくなるヘッドライトの光。
 ーー目の前で弾ける閃光。
 咄嗟に目を閉じた少年の横で、降谷零はぐいっとハンドルを左に切った。モノレールの側面と走行路。それを軸にしてRX-7は走り続ける。名前は一気に傾いた視界のなか、目を細めた。タイヤからは嫌な音がし、モノレールとの接触面からは火花さえ散っているように見えた。

「ここだっ!!」

 それでも名前にはなんの不安も感じなかった。降谷零の走りには迷いが欠片すら存在しなかったからだ。だから名前も、彼を信じた。車がさらに左へと折れ、宙に投げ出されようと。着地した先で、背後から別のモノレールが迫ってこようとも。

「くっ!」

 彼は呻きながらも傾いた体を立て直し、一気に加速することで追っ手から逃げ切ってみせた。
 光が遠ざかるのを見て、少年は安堵の息を吐いた。

「死ぬかと思ったぜ。にしてもスゲェな……」

「でしょう?」

 それが少年の独り言だということはわかっていた。けれど名前は言わずにいられなかった。誇らしくて、つい口を挟んでしまった。
 自慢気に笑う名前に、少年は呆れたような目を向けた。
 そんなふたりに一瞬だけ目許を緩めた零ではあったが、すぐに「それで、どうする?」と少年に訊ねた。
 その言葉に、ハッと我に返った少年は素早く携帯を操作した。画面上を流れるビルの写真。そのひとつに目をつけると、「この建築中のビルに向かって!」と指示を出した。
 画面に映っているのは名前にも見覚えのある建物ーー爆破直後の国際会議場であった。その傍らには、少年の言う通り建築中のビルがひとつある。

「よし!」

 少年の指示はそれだけだった。けれどそれだけで彼には十分だった。
 少年の作戦を把握した彼はニッと口角を上げると、車を加速させた。

「車は僕が飛ばす。だから名前、コナン君を頼んだよ」

「……ええ!」

 車を飛ばす。その言葉で名前にも彼らの策が見えてきた。あまりに大胆なーー危険すぎる賭け。
 しかし名前はなんの躊躇いもなく頷いた。飼い主からの滅多にない頼みを聞き入れた。顔さえ輝かせて。
 残り時間は五分を切っている。だがきっとやり遂げられると名前は思った。降谷零、彼ならば。