ある単純明快な話

 名前の怪我は全治1ヶ月と診断された。特に足首の骨折が酷く、手術とリハビリを必要とした。安静に。これが医者の言葉である。だというのに、1週間後には伊豆高原へ向かう車に乗っていた。透がテニスコーチを頼まれたからだ。

「本当に大丈夫なのか?」

 ハンドルを握りながら、透は名前を案じる。もう静岡県に入ったというのに何を言っているのだろう。今車から追い出されても困るだけだ。しかもこの質問は既に何度もされている。話を受けた時も、昨夜も、出発する直前も。車中でだけで10回は聞かれたような気がする。助手席の名前は笑った。「丈夫にできてるから平気だって言ってるのに」怪我をしてから、透はいやに過保護になった。名前の勘違いでなければ、の話であるが。

「確かに治りははやいけど」

 透は、「それでも心配なものは心配なんだ」と言った。「嫌かい」……そんな風に聞くのはズルいと思う。
 名前は首を振った。「……いやじゃない」嫌じゃない、けど。それでも落ち着かない。どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
 居心地が悪そうに身を縮めると、透は意地悪く笑った。

「僕にあんな思いをさせたんだ、これくらい我慢してくれ」

 あんな思いとはなんだろう。首を傾げても、透ははぐらかす。「そのうち、ね」名前は頭を撫で回されることでごまかされてしまった。
 「……もう、」名前は透に逆らえない。だから納得がいかなくても口を尖らすことしかできない。でも透といられるだけで嬉しかったから、こんなからかいにも胸が躍った。充足感。名前は幸せだった。

――それは正しいといえるのか?

 男の声がこだまする。ギプスで固定された足首が疼いた。「どうかした?」透の訝しむ声。名前は首を振った。「……ううん、なんでもない」それより、と訊ねる。

「透こそ平気なの、テニスのコーチなんかしてて、……あの男のことだってあるのに」

「ああ……」

 名前を出すのも嫌で――というか、何か嫌なものを引き寄せるようで、名前は言葉をのみ込んだ。透もそうなのか、その名を口にすることはなかった。赤井秀一。影のようにつきまとう男。スコッチを殺し、組織を抜け、組織に殺されたはずの男。
 相対して、理解した。アレはよくないものだ。名前から尊いものを奪い去ろうとする悪魔だ。
 透はとおくを睥睨した。鋭い眼差し。何かを、射抜くような。暴き立てるような。「わかってる、大丈夫だよ」不安に襲われたことすら簡単に見抜かれてしまう。名前を安心させるように、透はにっこり微笑んだ。

「……気になることがあるんだ、あの男が関係しているかもしれない」

「ここに?」

 素っ頓狂な声を上げてしまった。だって、しょうがないだろう。この小旅行は鈴木園子が持ち掛けてきたものだ。
 名前の見舞いに来た彼女は、「ほんっと災難よねえ……、埋め合わせにうちの別荘に招待しようと思ってたんだけど」と言って、溜息をついた。なんだってこんな怪我するのよ、いくら人混みで倒されたからって酷すぎるんじゃない。その言葉に名前は頬を引き攣らせた。園子が案じてくれるから余計に心が痛む。「わたしの分も楽しんできてくださいな」なんとかそう言うと、また彼女は重たい息を吐いた。「それがねえ……」彼女は事情を説明した。これがただの遊びではないこと。テニスを習い始めた恋人に簡単に負けないために、特訓をしなくてはならないこと。「そのコーチを安室さんに頼みたかったんだけどね」園子は両手を上げた。彼のテニスの腕前はポアロの店長から毛利探偵へ、そして園子へと回ったらしい。だがさすがに名前が怪我をしていては無理だろうと彼女は残念がった。
 「そうですね、名前を一人にするわけにはいきませんし」透の言い方には含みがあった。園子は気づかなかったけれど、名前には分かった。病室の壁を背に腕を組む彼が、迷っていることに。なぜ、と最初に思った。しかしすぐにそんなことはどうだっていいと思い直した。そうだ、そんなことより。「わたし、お兄様のテニスが見たいです」透は目を見開いた。彼が何かを言うより先に、言葉を重ねる。「ダメでしょうか、園子さん。わたしは見学ということになりますけど、でも少しは外に出た方がいいとも思うんです」園子は快く応じてくれた。ただし、最後の最後まで本当に大丈夫なのかと念押ししていったが。
 そんな心優しい彼女が、赤井と?いやしかし、来るのは園子だけではない。蘭はいいとして、その父毛利探偵も来る。悪い人には見えなかったが、彼は過去にFBIとのつながりを疑われたことがある。もしかすると、赤井に利用されているのかも。
 そう考えれば、病室での透の迷いにも納得がいった。

「……だったら最初から断らなくてもよかったのに」

 言うと、透はわけがわからないといった顔をした。「できるはずないだろう」そんなこともわからないのかと呆れられる。呆れて、どうしようもない子どもを見た時のように、笑った。

「名前の方が大切だからに決まってる」

 彼の向こうでは青々とした木々が生い茂っている。その向こうにはより深い色の山々が連なっている。それらはどこまでも広がる青空を縁取り、降りしきる陽光を一心に浴びている。
 それらはずっと車に着いてこれずに飛び去っていたのに、この瞬間、なにもかもが止まって見えた。木々も山も空も。なにもかもが。
 再び動き出した時には今度は名前が置いていかれていた。頭は情報を処理し損ね、体は硬直していた。なのに透は何事もなかったかのようにハンドルを切る。ぐるり。山道に沿って、揺さぶられる。ごつん。窓に頭を打ちつけて、名前は我に返った。……痛い。でもおかげで冷静になれた。冷静になったおかげで、他のことにも意識が向いた。

「とおる、」

「……なんだい」

「…………ううん、」

 くすぐったい感情がこみ上げる。先ほどまであんなに心配していた透が、今は名前をちっとも見ようとしない。頑なに、前方だけを見ている。それが何を示すのか。
 ……透も、照れることがあるんだ。そう胸中で言葉にすると、よりむず痒さを覚える。けど、嫌じゃない。不思議と心地がよかった。ふわふわして、そう、これも幸せなのだと思った。
 だから、名前は決めた。男の、赤井秀一の言葉と向き合った。――正しいといえるのか?ただ盲目に付き従うだけの、それは。
 男の声に答えた。――あなたの言う通りだ。正しくない。そう、もう透に従うだけではダメなのだ。名前は個を得た。絶対的な、揺るぎない己を手に入れた。
 名前は、名前の意志に従って、透を護る。透の命令じゃなく、名前なりのやり方で、透を護り続ける。
 形にすれば、なんてことはなかった。最初から答えは決まっていたのだから。
 名前はひどく落ち着いた気持ちで目を閉じた。あなたの力なんて必要ないの、目的くらい自分で掴めるんだから。次に男に会ったらそう言ってやろうと思いながら。