青のテニスウェアは透によく似合っていた。しかもそれが見せかけだけでないというのがまたたちが悪い。
風を切るラケット。鋭く地面に突き刺さるボール。透のそれは、ただの経験者の域を超えていた。想像以上のプレーに、名前はあんぐりと口を開けてただ拍手を送るしかなかった。「こういうのがプロ顔負けっていうのね」まったく、彼にできないことはないのだろうか。
称賛を透はどこか困ったような笑顔で受け止めた。「そんなことないさ」謙遜なんて必要ないのに。実際、他の者から見ても透の技術は優れているようで。いつの間にか観衆が生まれていた。そこには黄色い声援を送る年若い娘もいる。それが名前には誇らしいようなもどかしいような。透が褒められるのは嬉しいことのはずなのに、なんだか面白くなかった。
「透、」呼ぶと、彼は素直に近づいてきた。屈んで、と求めても応えてくれる。そんな彼の顔をタオルで拭った。「風邪、引かないように」これが言い訳だってことは名前だけの秘密だ。そんなこと露知らず、透は相好を崩す。「ありがとう」なんて。よく分からない衝動のまま動いた自分が恥ずかしくなる。名前は眉を下げた。
「私がそうしたかっただけだもの」
「それって」
続きは蘭たちの登場と江戸川少年を襲った不幸によってうやむやになった。
「あんなサーブ、どこで覚えたの」
名前は振り返った。見上げた先には車いすを押してくれている透がいる。彼は片眼をつぶってみせた。「まぁ、いろいろとね」透は秘密主義者だ。そういうところはベルモットに似てる。こんなことを言ったら透は(それにベルモットも)嫌がるだろうけど。ああでも、組織の人間はだいたいそうか。ジンも秘密が多いし。聞いてもいないことまで教えてくれるキャンティだったり、あとはやたら親切な(というか、世話焼きというべきか)ウォッカだったりの方が珍しいのだろう。そういえば、以前組織に疑われていたキールも人のよさそうな顔をしていた。数えるほどしか会ったことがない名前を案じてくれた。そう歳は変わらないだろうに、「こんな若い子まで……」なんて泣きそうな顔をしていた。だから名前はキールのことも気に入っている。赤井が生きていることを組織に知られて彼女が苦境に立たされるのを考えると胸が痛む。できるなら彼女には生きて幸せになってほしい。シェリーを見殺しにしようとした名前が言えた義理ではないが。
そう、シェリーは生きている。透は爆発に巻き込まれて亡くなったと言っていたけれど、あとでベルモットが教えてくれた。「だからってバーボンに教えちゃダメよ」と釘を刺されたが。でも透なら解いてくれる。だって、約束をした。透は裏切らない。だから名前は透を信じる。
こう考えると、江戸川少年に疑念が集まる。今は別荘で眠っているはずの少年に思いを馳せる。江戸川コナン。毛利蘭のところで居候している少年。名前は数えるほどしか会ったことがない彼。でもベルモットは彼を気にかけている。おまけに幼くなったシェリーは彼の友人だという。重要人物が江戸川少年の周りに集まりすぎではないか?となれば、もしや赤井も――
「名前?」
透に覗き込まれてはっとした。「疲れたかい」案じられて、首を振る。「平気、そうじゃなくて、考え事をしていたの」言うと、首を傾げられた。幼げな仕草なのに透がやると様になる。
名前は前方に目を向けた。透も、同じようにする。2人の数メートル先、毛利探偵と蘭と園子と、それから江戸川少年にラケットを当てた大学生たちが連れ立って歩いている。
「江戸川少年のことで、すこし」
ベルモットのこともシェリーのことも透には話せない。代わりに、別のことを話した。世良真純が彼を気にかけていることや気絶する前の彼の様子がおかしかったことなどを。
「透が蘭さんたちと話している時……、すごく険しい顔をしていたから」
彼についてはもう一つ気になる点がある。子どもらしくない灰原哀……すなわちシェリーと彼が似ているという話だ。これに関しては蘭と園子の会話から得たものでしかないが、シェリーと江戸川コナン、そしてベルモットが繋がっているということは。
蘇るのはベルモットの忠告。『バーボンと私、どちらを選ぶの?』――名前は、ごくりと唾を飲んだ。
「――彼は、ただの子どもじゃないと思う」
名前に言えるのはそこまでだった。そもそも江戸川コナンについては確証のない想像しか持っていない。確実な情報、大人が子どもになるという超常的な話はできないのだから。
それでも透は黙り込んだ。名前からは見えないけれど、いつもの考える仕草をしているのだろう。見えないのは、少し寂しい。名前は視線を下げた。ぐるぐるに固定された足首。それが視界に入るとどうしたって逸る気持ちが抑えられない。はやく、はやく。追いつかなくちゃ。
「……なるほどね」
透の呟きが落ちる。なるほどね。満足げな、何かを得たような響き。振り仰ぐと、まばゆい光が目を焼いた。光明。冬日とは思えないほどのきらめきは透のせいだった。彼の髪を透かして見える光は何倍にも輝きを増していく。名前が目を細めるのとその髪がぐしゃぐしゃにされるのはほぼ同時だった。
名前はびっくりして声を上げた。「なにするの」どけようと手を伸ばすと、その手が絡めとられる。
「そうか、名前はそう考えるのか」
ぎゅっと向かい合わせに握られた手。「そっか」はずんだ声。名前は目を瞬かせた。なんだか今日は知らない透ばかりだ。テニスをする彼も、こんな風に喜びを滲ませる彼も。初めてだった。
「透、どうしたの」
彼は掌をべったり張り付けたまま、名前の指先を弄んだ。人差し指が撫でられたかと思えば中指がいたずらに跳ねる。つつき、撫でまわし。透は笑う。「どうしたのって、」嬉しいんだよ。そう言った。
「名前も探偵になるかい」
「無理よ、だって透みたいに頭よくないもの」
「じゃあ警察はどう?」
小指が絡まる。名前は考えた。警察。今の自分からは最も遠いところだ。以前の名前なら笑い飛ばしたろう。なんの冗談だって。
――でも。
「……そうだったらって、思うわ」
指先を握り返す。透の顔は見えない。名前の顔も、きっと。