武官、崑崙山に足を踏み入れる


 空高く浮かぶ崑崙山。お伽噺では幾度となく語られてきた憧れの地に名前はドキマギしながら足を踏み入れた。
 その岩場、転がる小石ひとつとっても何らかの力が籠められているようで、迂闊に触れることもできない。
 そう躊躇う名前をよそに、蝉玉と武吉は自由気ままに歩き回っている。順応性の高さに羨ましくなる名前だが、その横で太公望は声を上げた。

「お気楽組はもう少し名前の落ち着きようを見習わんか!」

「いえ、わたしのは落ち着くというより緊張しているだけですので……」

 これからの戦いを考えれば肩に力の入っている名前より蝉玉たちの方がよほど使い物になるだろう。
 わたしも平静を取り戻さなければーー
 名前は強ばった顔のまま太公望を見上げた。

「……太公望どの、わたしの頬を思いきりひっぱたいてくれませんか?気を引き締めるためにも」

 名前は真剣だった。真面目に太公望に頼んでいた。
 それを受け、太公望は顔をひきつらせる。

「おぬしはおぬしで極端だのう……」



 悠久の時を生きる崑崙山はしかし、それ故に隙が多くあった。長年使われていないという砲台。穴の空いた外壁。砦として使うにはあまりに心許ない。

「これでは最低限の備えすら危ういですね」

 崑崙山の見取り図を見下ろし、名前は唇を噛んだ。
 そもそもこの見取り図すら作られたのは何千年も前のことらしく、現在とは異なる箇所も散見していた。太公望が動かすと決めた崑崙山の操縦室も似たようなもので、太公望の戦略がうまくいくかも不確定である。
 せめてもう一日二日、時間があればよかったのだが……。
 それは太公望や楊ゼン、太乙真人も同様のようで、皆一様に固い表情であった。
 仙道は極めて緩やかな時を生きている。だから仕方のないことだろうが、それがまさかこんな形で裏目に出ようとは。

「まずは砲台が使い物になるか、ですかね」

「あぁ。操縦室の方は太乙と公主に任せるとして……あとは外壁の補強くらいかのう」

 楊ゼンの言葉に、太公望は溜め息混じりに呟いた。
 この時点で崑崙山は完全に後手に回っていた。聞仲がどんな手を取るか、金鰲島にどのような装備があるか、それすらもわからない。
 しかしだからといってやすやすとやられるつもりはない。
 それに、名前には不思議と不安がなかった。

「ではわたしは外壁の補修に向かいます。幸い周の要塞造りで要領は得ましたから」

「おお、ではそちらは任せたぞ」

「はい」

 それは太公望の目に光があるからだ。
 希望を忘れぬ瞳。崑崙山を守るという強い意志。それに頷きでもって返し、名前は微笑んだ。
 太公望がいる。彼が共に戦ってくれる。
 それだけで名前は心強く思えた。不安など、微塵もなかった。



 崑崙山の外壁は長年の飛行と道士たちの苛烈な修行のせいであちこちガタがきていた。
 ひび割れ、所々穴の空いた岩盤。それに応急処置として土を塗り込めていく。
 崑崙山の道士たち総出でことにあたってはいるが、しかし猶予の短さは隠しきれなかった。
 それでもできることからやらなければーー
 そんな名前を尊敬と呆れの混じった目で蝉玉は見る。「真面目ねぇ」と。
 しかしそう言う蝉玉も名前の隣で同じ作業をこなしていた。体や衣服が汚れるのを厭わず。

「にしても名前がこっちに来るとは思わなかったわ」

「そうですか?」

 手を止めることなく、しかし名前はちらりと視線を上げた。
 蝉玉の顔に嘘はない。意外。そう言った言葉通り、彼女は小首を傾げて言う。

「だって。下には王サマも天化もいるじゃない。そっちについてなくてよかったの?」

「あぁ……」

 確かに、と名前は笑った。恋に生きる彼女なら、土行孫と離れる道は進んで選ぶものではないだろう。
 けれど名前は違う。名前も天化も姫発も。彼女らとは違うのだ。

「わたしも天化どののことは心配です。できることなら共にいたい。でも、わたしたちは武人ですから」

 どうしても戦いを優先してしまう。共にいたいと願ってはいても、その生を祈ってはいても。それよりも曲げられない信念があることを、名前も天化も知っていた。

「けどそれじゃあ王サマは違うでしょ?引き留められたりしなかった?」

「いいえ?」

 いやに食い下がる蝉玉に疑問を抱きつつ、名前はここに来る前の記憶を辿った。
 崑崙と金鰲で戦が起こる。それにより道士たちが皆崑崙山へ向かうことになったため、周の隊列も進軍どころではなくなってしまった。
 そこで太公望は姫発に豊邑への一時帰還を指示した。
 ーーせっかくここまで来たのに。
 そう不平を洩らす姫発だったが、太公望に「わしナシで朝歌を占領できるのか?」と問われればぐうの音も出ない。
 そんな彼は、名前の性質をよく知っている。何せ幼い時からの付き合いだ。むしろ名前以上に名前のことを理解しているかもしれない。
 だから仙道の戦いに着いていくと決めた名前を彼が引き留めることなどなかった。

『せっかく俺がくれてやったんだ。その剣、錆びさせるんじゃねぇぞ』

 旅立つ直前。
 姫発はそう言って、名前を鼓舞した。背中を、押してくれた。
 武王から頂いた剣。それはすっかり名前の手に馴染み、名前にとっては欠かすことのできない大切な相棒となっていた。だから仙人界へもこの剣と共に行こうと決めていた。

『はい、もちろん。この剣を武王さまと思えば……わたしとしても心強い』

 ーーありがとうございます。
 そう言って、名前は懐に吊るした剣を、その柄を撫でた。この剣と共にならば、仙人界だろうと怖くはない。離れた地だろうと、武王と共に在ると。彼を守るための戦いでもあるのだと。そう実感できるから。

『必ずや勝利を、あなたに』

 そう微笑む名前を、姫発は王らしく落ち着いてーーけれどほんのわずかに瞳を揺らして見た。

『……勝利とか、そんなのは二の次でいい』

 掠れた声。微かにひそめられた眉。
 そこにいるのは周の王ではなかった。名前のよく知る昔馴染みのーーただの姫発としての顔だった。

『ーー生きて、帰れ。必ず……俺のところへ、帰ってこい』

『……はい』

 深く頷いた名前の頭を、姫発はくしゃりと撫でた。

『……ま、無茶すんなってことだ』

 そう言い直したのが照れ隠しであるのを名前は知っている。彼がそういう性格であるとーー知っているから余計に嬉しくて。蝉玉に話しながら、名前は姫発に撫でられた髪に触れた。
 そこには感触も温もりも残っていない。けれど触れれば如実に思い出すことができる。彼が名前を案じてくれたこと。それでも名前の意志を尊重してくれたこと。名前を信じてくれたこと。何もかもが嬉しく、つい名前の頬も綻んでしまう。

「ふぅん……」

「な、なんですか」

 しかし話を聞き終えた蝉玉が洩らしたのは、意味深な呟きとニヤニヤとした笑いだった。
 その笑顔に言い知れぬ不安を感じ、名前はたじろいでしまう。
 彼女にそんな反応をされる覚えはないのだが……。何かおかしなことを言っただろうか。
 そう考えを巡らせるが、心当たりはやはりない。おまけに蝉玉には答えを与える気がないらしく、名前が訊ねても「べっつに〜?」としらを切るばかりである。

「でも名前が好きなのは天化なのよね」

「……そうですけど、」

「けど王サマのことも大切、と」

「それはもちろん……」

「なるほどなるほど」

 何がなるほどなのか。
 蝉玉は当事者を置き去りにしてひとり納得している。
 彼女が何を考えているのか。非常に気になるが、今はそれ以上の気がかりがひとつ。

「あの、蝉玉どの……そろそろ手の方も動かさないと」

 名前はそっと蝉玉の後ろに目を走らせた。
 砦造りで培われた経験のせいか。名前自身は話しながらも着々と手を進めていた。
 だが蝉玉はひとつのことに集中してしまう質らしい。聞き手となっていた彼女の作業はすっかり止まり、「そんなのより恋バナの方が大事よ!」と拳を握っていた。蝉玉の視界には名前しかなく、その目は輝きに満ちていた。
 だから彼女は気づかなかった。背後に立つ存在に。落ちる黒い影に。

「これ、蝉玉!口ではなく手を動かさんか!!」

「うわっ、太公望!」

「まったくおぬしは……時間がないと散々言ったろうに……」

 渇を入れられる蝉玉に心のなかで謝りつつ、名前は「そういえば」と、あることを思い出していた。
 蝉玉に伝えなくては。ーー天化に想いを告げたことを。
 これから彼とどうなりたいかまで名前は考えていない。けれど応援された身としては報告は欠かせないだろう。何より伝えなかったら伝えなかったで、後から非難されそうだ。なにせ蝉玉はこういった話には目がないのだから。
 だがそれは"今"ではないな、と名前は太公望と言い合う蝉玉を眺め、思う。
 きっと今報告したら、また彼女は作業どころではなくなるだろう。だからーーそう、この戦いが終わったら。

「蝉玉どの、あとで色々お話しさせてくださいね」

 太公望が去った後。彼への文句を溢す蝉玉を宥め、それから名前は彼女に耳打ちした。
 蝉玉は一度目を見開き、しかし何かを察したらしく、にやりと片頬を上げた。

「楽しみにしてる」

 片目を瞑り、蝉玉は笑う。それは戦の直前とは思えない、涼やかできれいなものだった。
 だから名前も目を細めて微笑んだ。お気楽組と太公望は言ったが、彼女が常通りであることに名前は安息を見出だしていた。蝉玉の存在もまた、名前にとってはこの戦の支えであったのだ。