太公望(伏羲)×侍女(前編)
夜の苑林にはさやかな風が吹いていた。
人の気配は遠く、灯りは自身の持つ手燭のみ。けれど名前の足に迷いはない。宮から離れ、鬱蒼とした木々のなか歩を進めた。
そうしていくとやがて池の畔に突き当たった。月明かりのたゆたう水面。揺らめく水上にかかる橋を渡り、名前はその先の亭子に踏み入る。
苑林のなかでもとりわけ奥まったところにある庭院。その上夜半とあっては、とても城内とは思えないほどにしんとしている。静寂よりもなお静かなそれは、この世の果てを思わせた。
だからこそ名前はこの亭子を選んだ。
月光と共に池に浮かぶ亭子。木立のなかぽかりと空いた空間はどこかもの悲しく、それ故に世界からは隔絶されていた。世界には己しかなく、己だけの世界は名前に安らぎを与えた。
ーー最初は、ただそれだけだった。
ことの始まりを思い出しながら、名前は置いた手燭の代わりとばかりに懐から笛子を取り出す。黒檀でできたそれは、西域出身の母から譲り受けたもののひとつだった。金の髪や琥珀色の瞳を受け継いだように。
そしてその母がかつてこの国に来た時と同じようにーー母が父と出会った時と同じようにーー名前は笛子を奏でた。
小さな庭院に響き渡る音色。名前は目を閉じ、異国に流れ着いた母を思った。その異国で出会った父と生涯を共にすると決めた母の心を思った。
頬を撫でる風は仄かに冷たく、梅の香りを運んでくる。けれどふと、その風に異なる匂いが滲んだ。高貴な、けれど清々しい香り。それは名前に小荳蒄を思い起こさせた。
「……姿を見せてはくれないのですか」
名前は笛子から口を離した。
庭院は相変わらず静けさに支配されていた。落ちたのは名前の声、それから息づかいだけ。
けれど名前はじい、と暗闇を見つめた。闇夜に溶ける橋の先を見つめた。
一秒、二秒、三秒……どれほど経った頃か。
きい、と枯れた橋が観念したように鳴った。そして暗がりから人影がそうと姿を現す。
幻想的な香りを纏ったその人は、決まり悪そうな顔で名前の前に立った。
「……どうしておぬしには見つかってしまうのだろうな」
そう溢す周の軍師に、名前は微笑を浮かべた。
「好いたお方のことですもの。見つけられぬ理由がありませんわ」
「おぬしはまた事も無げにそういうことを……」
周の軍師、太公望はしかめ面のまま欄干に寄りかかった。だが名前との距離は一メートルもない。お陰で名前には、燭火に照らされて朱に染まった顔がよく見えた。
傷ひとつない滑らかな少年の頬。そこから続く輪郭、首、腕……そのすべては名前が彼に初めて出会った時と変わらない。変わらず、瑞々しいままだった。
「ーー痕に、ならなくてよかった」
そこに、名前は手を伸ばす。
けれど彼に触れることはしない。ふたりの間にある隔たり。透明な壁越しに、名前は彼の輪郭をなぞった。宙でそっと、その頬に手を添えた。
そこには当然なんの感触もない。ひやりとした空気だけが名前の手につく。だから名前は想像した。彼の温もりを。その柔らかさを。
想うことしか、できなかった。
けれどそれで十分なのだ。そう言わんばかりに微笑む名前に、太公望は目を細めた。どこか切なげに。一瞬だけ、瞳を揺らして。
しかしすぐに彼は表情を変えた。漂う空気と共に。演技がかった大仰な仕草で、「……見舞いにも来なかったくせに」と名前を睨めつけた。
子供のように口を尖らせ拗ねる様は、とても周の軍師とは思えない。
名前はくすりと笑って、小首を傾げた。
「あら、来てほしかったのですか?」
「そりゃあなぁ……枕元で林檎を剥きながら看病するのが鉄則であろう?」
「そこは桃じゃなくてよいので?」
「うむ、桃ならなおよし!といったところかの」
「ふふっ……」
胸を張る太公望。彼が桃という果物に傾倒しているのは、この城では周知の事実である。
それもまた子供らしくてーーいとおしくて。名前は口許に手を添えながら笑みをこぼした。
俯きがちな少女の品のある微笑。長い睫毛に縁取られた甘やかな瞳。それらを太公望は目に焼きつけた。
焼きつけ、それから口を開いた。ことさら、ゆっくりと。
「……わかっておるよ、おぬしが姫昌の嫁の侍女だということくらい」
彼の言葉に名前ははっとした。
彼女が顔を上げた先。月明かりに照らされた太公望は、やはり痛みを堪えるような顔をしていた。その言葉を裏付けるかのように。
そしてそれは名前にも伝播した。
「……ごめんなさい」
絞り出される声。伏せられた目。くしゃりと歪む顔に、太公望は手を伸ばしかける。
けれどやはりその手が名前に触れることはない。握り締められた掌をほどくことすら、太公望にはできなかった。
できるのは、首を横に振ることだけだった。
「謝るな、おぬしに後悔がないのなら」
「はい。でも、……違う、出会いがあったら、と」
名前は胸に手を当てた。
翡翠色の襦裙に淡い銀の披帛。履には花が織り込まれ、腕には紅玉の飾りがある。それらはすべて侍女である名前に与えられたものだった。主君である、西伯侯姫昌の妃から贈られた心遣いであった。
名前は主君を尊敬している。西域から政治的理由で嫁いで来た主君。心細かったろうに、彼女は嘆くことなくこの国に馴染もうとしてくれた。
それでも彼女が名前を求めたのは、名前にも西域の血が流れているからだろう。名前自身に異国の記憶はなくとも。それでも故郷を思い出す縁として名前を必要とした。
だからこそ、名前はこの道を選択した。不自由もあるが、選択し続けたことに後悔はない。
それでも『もしも』と考えずにはいられない。もしも名前が侍女でなかったら。太公望が道士でなかったら。
そんな、栓ないことを考えずにはいられなかった。
「……言うな」
名前の言葉を、太公望はゆっくりと否定した。けれどその目は池の水面と同じく揺れていた。
「しかしそうでなければこうして共に過ごすこともなかっただろうしなぁ……悩ましいところよ」
「ええ。……本当に」
名前は手元に視線を落とした。黒塗りの笛子は、彼との出会いの時にも名前の手にあった。
太公望と初めて会った時も、名前はこの亭子でひとり笛子を奏でていた。そうしながら話に聞いたことしかない、自身のもうひとつのルーツに思いを馳せていた。砂漠や塩湖や……見たことのない世界に。
そうしている時に、彼は現れた。音もなく、声をかけることもせず。ただ彼は黙ってその音色に耳を傾けていた。名前の知らない世界に生きる彼が、名前の知らない世界の音色を静かに聴いていた。
彼が何も言わなかったから、名前も問うことをしなかった。彼が西伯侯姫昌に迎えられた軍師であることは噂で知っていたし、何よりふたりきりの静寂がひとりきりのそれよりも心地がいいと感じてしまったから。
だから次の日も、またその次の日も、名前は口を開かなかった。彼の世界を壊さぬよう、名前はただ奏で続けた。
沈黙が途切れたのはそれから何日後のことだろう。
口火を切ったのは太公望だった。
彼はぽつりぽつりと言葉をこぼした。名前の音色から懐かしさを感じたこと。彼がかつて遊牧民であったこと。同胞が、妲己に殺されたこと。
名前もまた彼に応えて静かに語った。妓女であった母のこと。もうひとつのルーツに焦がれていること。けれど主君を大切に思ってもいること。
そうしたことをふたりはこの亭子で語らった。飽くことなく、ずっと。
約束はなかった。それでもふたりにとってはそれが当たり前だった。当たり前で、日常だった。
ーーけれど。
「ですがそれも今日で終わり。……そうなのでしょう?」
名前が言うと、太公望は目を見開いた。
その驚きはすぐに過ぎ去り、代わって浮かぶのは仄かな笑みだった。
「おぬしには何もかも見透かされている、というわけか」
「まさか。ただ今日のあなたはあの時と……以前出立した時と似ていましたから」
以前出立した時。西岐が周と名を改め、いよいよ朝歌に向けて進軍する、その前日。その日もやはり、太公望はこうして名前の前に現れた。
けれどその時は名前も彼らが旅立つのを知っていた。太公望もまた同じで、無事を祈る名前をむしろ元気づけようとしてくれた。
「でもあの時とはまた少し違う……そうではありませんか?」
それが今はなかった。仙人界での大きな戦を経たあとの彼にはーー多くのものを亡くした彼には。
悲壮な覚悟。そうしたものを名前は太公望の瞳から見つけていた。
「……本当におぬしには敵わん」
太公望は溜め息に似た長い息を吐き、降参というように両手を挙げた。それはやはり芝居じみていて、冗談のようであったけれど。
彼はすぐに表情を改めると、「明日、ここを発つ」と静かな声で告げた。
迷いのない目。真っ直ぐなそれは彼の心根そのもので、名前は知らず惹きつけられる。
「……今度こそ、西岐に戻ることはないだろう」
「……はい」
「ーー共に来る気はないか?」
さぁ、と風が吹いた。
庭院の梅と名前の梔子香と、それから太公望の小荳蒄に似た匂い。混じり合った香りに、鼻の奥がツンとした。
それでも名前は首を振る。
「……いいえ」
風に翻る披帛を押さえ、名前もまた落ち着いた声音で返した。
「答えは変わりません。あの時と同じ……わたくしは、お方様の侍女です。それ以外の何者でもない……仙道と共に歩むことなどできぬ、ただの人です」
そこで、名前は笑った。出会った頃よりも長くなった髪を風に遊ばせて。出会った頃よりもほんの少し高くなった目線で。
少女から女性へと変わりゆく娘は、しかし大人びた目で太公望を真っ直ぐ見つめ返した。
「きっといつか後悔します。きっといつか……あなたを恨んでしまう。老いることのないあなたを。わたくしと出会ったあなたを。恨んで、傷つけて……そうしてわたくしは死んでしまう。あなたを遺して」
そんな醜い自分を見せたくない、と名前は笑った。
「それにどうせなら若い時分のわたくしを覚えていてほしい。女心とはそういうものです」
「……そうか」
太公望が食い下がることはなかった。かつても、今も。彼はただ穏やかに受け入れるばかりであった。流れる風のように、彼は掴み所のない笑みを見せた。
欄干から離れ、太公望は名前の目前に立った。名前も立ち上がり、それに応えた。
ふたりの間にはほんの少しの隔たりしかなかった。なのにどちらもがそれを越えようとはしなかった。ーーしてこなかった。
太公望の背は名前より僅かに高いだけだった。なのにーーいや、だからこそ名前は永遠の隔たりを感じてしまった。彼の伸びない背丈と名前の成長する体。やがて名前の腰が曲がろうと、彼は変わらぬ姿をしているのだろう。
それは太公望も同じだった。女性らしく華やいだ甘い香りや円やかな骨格、色づく気配は太公望に時の流れを感じさせた。
「ならばさよならだ、名前。もう二度と会うことはないだろうが達者でな」
「はい」
太公望は笑って手を差し出した。名前もまた穏やかに笑んでそれに応じた。
ーーこの時までは。
「幸せになるのだぞ。おぬしは器量もいいし、才能もある。よい縁談を結べよう」
「……はい」
「あ、だからといって武王はやめておくのだぞ?それから楊ゼンのような見てくれの異様にいいやつもな。自信過剰なのはいかん。だからといって天化のように色恋と縁遠すぎるのもダメだ。絶対に鈍感がすぎて苦労する羽目になろう。ナタクのようなのは論外だ。あとは……」
「……太公望さま、」
その一言で、太公望は言い募るのをぴたりとやめた。
ーー沈黙。
太公望の目には深淵があった。黒々としたそれは光の射さない池よりも深く、なのに怖いほど澄んでいた。
「……傷を、遺してはくれませんか。わたくしに、生涯消えない傷を」
揺れる水面に吸い寄せられた名前は、気づけば口を開いていた。
「名前、」
「ーーわたくしは、あなたがほしい」
ーー思い出を、希ってしまった。
吐息のように儚い囁き。名前は震える手を彼の胸元に添えた。そうしてじっと太公望を見つめた。
太公望は息を呑んだ。風に紛れさせることもできたろうに。彼はそうせず、身を屈めた。色づいた目に、名前を映した。
名前はただ目を閉じるだけでよかった。それだけで吐息は混じり、呼吸は溶け、熱は重なり合った。
初めて触れた温もりは一瞬で遠ざかっていく。けれど傷は確かに残った。名前と、太公望のなかに。
「……さようなら、太公望さま」
「……さよなら、名前」
泣きそうになりながら、それでもふたりはついぞ涙を見せることはしなかった。最後まで微笑を湛え、別れを告げた。
道士と人間。それ以外の何者にもなれなかったふたりにはそれしか道がなかった。それが永久の別れと知っていても。