太公望(伏羲)×侍女(後編)


 その夜も名前はあの亭子に来ていた。亭子で、かつてと同じように笛子を吹いていた。
 太公望が旅立ち、それを追うように周の隊列も殷への進攻を始めたあと。ずいぶんと寂しくなった西岐城で、名前は報せを受けた。
 ーー殷が滅んだ、と。
 喜びに沸き立つ西岐の民を、名前はどこか遠くから見ていた。
 戦に勝利した、それ自体は喜ばしいことだ。武王の無事を知り、名前も安心した。
 けれど名前が真に知りたいことーー太公望ら仙道のその後は名前の元にはもたらされなかった。
 仙道たちが人間界を離れ、また戦いに身を投じたのだろうことは噂に聞き及んでいる。が、その戦いの結末を名前は知らない。誰に聞けば答えが得られるのかも。 
 ーーそれから、どのくらいの時が流れたろう。
 周の都が豊邑となり、その豊邑も鎬京と名を変え。それでもなお名前はひとり、小さな庭院の片隅で夜を過ごしていた。太公望から与えられた傷だけを縁にして。
 彼の帰りを待っているわけじゃない。再会を期待しているわけでも。
 ただ、名前は取り残されただけだ。流れていく歴史の波から外れ、立ち止まることを選んだ。名前にはこの亭子と太公望のくれた傷さえあればよかった。
 けれど時間は待ってくれない。
 名前がひとつ歳を重ねた頃から、しきりに縁談が持ち上がるようになった。それは心優しい主君なりの気遣いであったり、心配した両親からのものであったりした。
 彼らが選んだ人だ。きっと名前はその人を好きになる。そしてやがては子供をもうけ、世間一般の家庭を作ることになるだろう。
 わかっていて、名前はそれらを拒んだ。ーーわかっているからこそ、名前には受け入れることができなかった。
 幸せになれ、と彼は言った。それを拒絶し、傷を求めたのは名前だ。傷つき、傷つけた。
 だから名前は生涯誰も愛さない。
 ただこの亭子で、思い出と共に生きていければいいーー
 ーーそう、思っていたのに。

「……?」

 気配がした。自分以外の、何者かの。
 名前は手を止め立ち上がり、辺りを見回す。季節が一巡し、春の装いをした庭院。ちいさなそれは、けれど繁る木々と夜闇で人影ひとつ見つけることができなかった。どんなに目を凝らしても、燭火を頼りにしても。
 気のせいだったか。そう思い直し、座り直そうとした時だった。
 ーーふわり、と香りが漂った。
 風に紛れ、ともすればかき消えてしまいそうなほどの淡い匂い。ーー名前の心に痛いほど刻まれた、幻想的な匂い。
 それは、名前がかつて小荳蒄のようだと評した香りだった。

「太公望さま……?」

 震える声も披帛を胸元にかき抱くのも、寒さのせいじゃない。信じがたくて、信じたくて。裏切られたくないと、期待したくないと、そう思っているのに。
 名前はその名を呼んでしまった。傷痕にしたはずの、想いを。

「……久方ぶりだな、名前」

 きぃと鳴る橋も、ゆっくりと現れる影も。別れの日と同じなのに、その容貌は当時とはまったく異なっていた。
 いや、細部を見ればなんの変化もないように見られる。が、醸し出す雰囲気が違うと名前は思った。

「……あなたは、誰ですか?」

 それは直感だった。
 名前は眼差し鋭く眼前に立つ人を見た。太公望そっくりの容姿。太公望そっくりの声。それでも彼ではないのだと、男の纏う空気でわかった。
 太公望は風のようなひとだった。風のように澄んだ、気持ちのよいひとだった。
 けれど目の前の男にはそれがなかった。どちらかというと煙のようなーー妖しさが感じられた。
 太公望そっくりの男は、太公望そっくりの顔で驚きを表現した。見開かれた目。純粋に驚いたといった表情。
 身構える名前に、男は笑った。見覚えのある笑い方で。

「まさか一発で見破られるとはのう」

「では、やはり……」

「いや、わしは太公望だ。……基本的にはな」

 戸惑う名前に、彼は簡単に説明してみせた。曰く、彼は太公望と王天君なるものが融合した姿であると。太公望自身忘れていたが、元々はふたりでひとつだったのだと。

「伏羲、というのだそうだ」

 だが太公望のままでいい、と彼は他人事のように言った。
 しかしそれを聞かされた名前の方はそうはいかない。

「ですが、その……やはり別人のようです」

 素直に太公望と呼ぶことが名前にはできなかった。姿形も魂も同じと言われても、落ち着かないものは落ち着かない。
 そう、名前は身じろいだのに、隣に腰掛けた彼は動こうとしない。いや、むしろ名前が隅に寄ればその分だけ距離を詰めてくる。太公望は、そんなことしなかったのに。

「……嫌いになったか?」

 なのに、太公望と同じ顔で、同じ声で、悲しげに問われると、名前は拒めなかった。

「そんなことは、ないのですけど……」

「では気持ちは変わらないと思ってよいのだな」

「……ええ」

 半ば押し切られる形で名前は肯定した。
 そうしてから、ハッとする。思い出したのだ。名前の気持ちをーーあの日の選択を。
 名前は居住まいを正した。その表情に先刻までの困惑はない。確固たる信念。強い意志の籠る目で、名前は太公望を見つめ返した。

「そうです。わたくしの気持ちは変わらない。……あなたという傷を抱えて生きていく、そう決めたのですから」

 言い切り、それでもなお隣にある温もりにーー名前は顔を歪める。

「なぜまたわたくしの前に現れたのですか?わたくしはもう……十分なのに」

 その声には涙が滲んでいた。
 あれがふたりの永訣の日だった。永久の別れとした。名前も、太公望も。
 そう、太公望もあの瞬間は受け入れていた。これが終わりだと。互いに傷を抱えて生きていくと決めていた。
 ーーだがそれは、太公望ひとりの決意だった。
 伏羲は名前を見た。濡れた目で自身を非難する目を。その瞳に映る自身に、どうしようもなく喜びが込み上げた。
 そうして持ち上げた口端をそのままに、伏羲は口を開く。

「そうだな、おぬしはそれで満足したろう」

 伏羲は手を伸ばす。太公望のように躊躇うことなく。

「だがわしは全然満足しておらん」

 伸ばし、名前の頬に添えられた手。触れた指先に、びくりと震える体。
 それを押し隠し、名前はきっと顔を上げた。挑むような目を伏羲に向けた。

「ですが太公望さまも受け入れてくれたではないですか」

「そりゃあ遠慮したからに決まっておろう。おぬしの気持ちを尊重してな」

「そんな、」

 名前の築いた壁は容易く打ち砕かれた。
 言葉を詰まらせ、名前は口許を押さえた。あの日のことは独りよがりだったのか、と。
 俯く名前の肩を、伏羲は抱いた。ことさら優しく、穏やかに。だからだろうか。名前から抵抗の色はなかった。
 力なく寄りかかる名前の体は驚くほど頼りない。ともすれば儚く消えてしまいそうなほどに。
 その耳許で、伏羲は囁く。太公望と同じ声で。太公望としての言葉を。

「……あの時はああするしかなかった。わしはおぬしに遺していく悲しみを背負わせたくなかったし、わしといることでおぬしが傷つくのも嫌だった」

 その言葉に、名前の肩がぴくりと動く。
 けれど伏羲はなおも言葉を続けた。名前を抱く手に力を込めて。

「だが今は違う。わしは、おぬしが欲しい。おぬしが悲しもうとも、傷つこうとも。……恨まれたとしても、構わない」

 そろりと持ち上がる名前の瞳。琥珀色のそれは月の光を浴びて常以上に輝いていた。
 その目を真摯に見つめ、伏羲は名前の右手をとった。

「おぬしの一生はわしにとって瞬きに等しい。到底釣り合わんとはわかってる。だがそれでも名前の残りの人生すべてを手に入れたい」

 太公望が名前に捧げる時間と名前が太公望に捧げる時間。そのふたつに差異はない。だが価値はまったく違う。名前が亡くなった後も太公望の生は続いていく。永遠ともいえる時間が、太公望にはある。
 それでも太公望はーー伏羲は、名前の手を離さなかった。離せなかった。名前の望みを知っているにも関わらず。
 名前は、ゆっくりと唇を動かした。「……それは、」掠れた声は喘ぐようで、名前は深く息を吸った。

「それは、太公望さまの願いですか?それとも、」

「わしの願いだ。……わしだけの、願いだ」

 名前は伏羲の目を覗き込んだ。以前と変わらぬ黒々とした、しかし澄んだ瞳を。
 それは彼の根底も太公望と同じだということを示していた。
 だからこそ名前はまたくしゃりと顔を歪めた。泣き出す寸前の、迷い子のような表情。それを堪えるように、名前は伏羲の手に縋りついた。

「そんなこと、一度だって言わなかったじゃないですか」

「欲張りになった、それだけだ」

 伏羲は笑い、名前の目許を指先で掬い上げた。そこには涙の欠片が浮かんでいる。それすらも惜しいと言わんばかりに、伏羲はその欠片を舐め取った。
 それでも名前には信じられない。あの太公望が。名前の願いを聞き届けた太公望が、名前を苦難の道に進ませようとするなど。
 到底信じられず、名前は頑是なく首を振った。それから、「……いつかは、老いて死んでしまうのに」とぽつりと呟いた。
 なのに伏羲は冗談混じりに「介護くらいしてみせるぞ」と胸を張って答えた。
 答えた後で、静かに名前に告げる。

「それに、おぬしが死んだらわしもここを去るつもりだ」

 ……何を言っているのかわからない。
 そういいたげな名前に笑みを深め、伏羲は視線を流した。欄干の向こう、庭院よりその先ーー今は暗闇ばかりの世界へと。

「わし以外の始まりの人はこの星と同化している。だからわしもそこに合流しようかと思ってな」

「それじゃ、太公望さまは……」

 ここまで説明されれば名前でも察しがつく。
 目を見開いた名前に、伏羲は視線を戻し、目を細めた。それはひどく温かで、甘やかでーーいとおしいと訴えかけてくる眼差しで、彼は言う。

「……おぬしのいない人間界は、わしには広すぎるよ」

 その目に、声に、握り締められた手に。名前の胸は痛いほど締めつけられる。それでも彼は離さない。名前の手もその視線も。ーー言葉すら。

「それでもおぬしが嫌と言うならわしは……、そうだな、寂しい一人旅にでも出るとするか。それ以外することもないしな」

「……その言い方は卑怯です」

「卑怯で結構。わしはなんだってするぞ?」

 伏羲はにいっと笑った。
 その笑い方すら太公望と同じで、もう名前の心は止められるところになかった。ただ好きだ、と。そう思ってしまった名前を見透かしたかのように、伏羲は手を引いた。

「ーー共にこい、名前」

 引き寄せられた先。鼻先が触れ合うほどの距離で、伏羲は名前を誘惑する。真剣な、真剣すぎる目で。伏羲は以前とは違い、訊ねることはしなかった。ただ力強く名前の背を抱いた。

「わしが、おぬしを連れていく。西域にだって、それ以外にだって」

「ですが、わたくしにはお方様が、」

「そんなのは関係ない。わしが連れ去るまでよ」

 高笑いし、伏羲は甘い言葉を耳打ちする。「わしのせいにすればいい」そう、逃げ道を与えた。
 けれど名前はゆっくりと、だが確かに首を横に振った。

「できないわ、だって……」

 躊躇い、惑い。そうしてから、名前は伏羲の目を見つめ返した。

「それを夢見たわたくしも、確かにいるのですから」

 名前は胸に手を当てた。心臓は確かめるまでもなく高鳴り、心はどうしようもなく彼に惹かれていた。手の施しようは最初からなかったのだ。太公望が、選択してしまった時点で。この場で再会してしまった時点で。
 名前にはもう、微笑を浮かべることしかできなかった。

「わたくしには拒絶できません。あなただけのせいにすることも。わたくしが焦がれたのも、夢見たのも、嘘ではないのですから」

「……それでは、わしを突き放すことはできないぞ?」

「わかってます。でも……やっぱり怖いわ」

 今はまだいい。けれどやがて名前は太公望より年上に見られるようになる。名前は太公望の姉になり、母になり……そしていずれは老いて死ぬのだ。
 その時まで、名前は彼の隣にあれるだろうか。変わらず、その手を握り返すことができるだろうか。
 ーー彼を、傷つけずに済むだろうか。
 目許に落ちる影。それは名前の憂いを表していて。

「……仕方ないな」

 その頑なさに伏羲は溜め息を吐くと、名前を横抱きにした。
 当然、驚き、戸惑いの声が腕の中から上がる。だが伏羲はそんなことでは止まらない。彼は笑いをこぼすと、

「わしがおぬしを連れ去る。問答無用でな」

 と宣言した。
 その表情は清々しいほどに晴れ渡り、名前を抱く手は言葉通りに強固なものだった。
 そのまま彼は、本当に名前を城から連れ去った。
 遠ざかる亭子。小さくなる西岐城。流れていく景色を横目に、名前は伏羲を見上げた。

「……初めから、こうするつもりだったのですね」

「はてさてどうだろうな」

 伏羲ははぐらかして答えてはくれない。だがすべては彼の手の上であったのだと、名前はその笑顔を見て諒解した。
 空を駆ける伏羲の腕の中。それでも名前はそっと口を開いた。静かに、穏やかに。ただ彼のことだけを案じ、新たな願いを口にする。

「……ねぇ太公望さま、嫌になったら言ってくださいね。わたくし家にさえ帰れれば文句は言いませんから」

「おぬしはまたそういう……」

 それを聞き、伏羲は眉をひそめる。呆れた。そうぼやき、そしてなんの予兆も見せず、名前の唇を奪った。

「先に音を上げるのはどちらだろうな?まぁ嫌と言ったところで帰してはやれんが」

 突然奪われた二度目の口づけ。それを受け入れるのに必死だった名前には、伏羲のこの台詞も三度目の口づけもあまりに刺激が強すぎた。
 お陰でもう名前には彼のことしか考えられなかった。それもきっと彼の策略なのだろうが。






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お題箱より。ありがとうございました!