天化、運命を想う


 穏やかな昼下がりだというのに人々に落ち着きがないのは、頭上に見慣れぬ影がかかっているせいだろう。
 金鰲島。崑崙山と対をなすもうひとつの仙人界は、周の隊列が西岐に帰る間も絶えず移動を続けていた。崑崙山を落とす、そのために。
 天化はそれを複雑な思いで見上げていた。
 崑崙山は天化のもうひとつの故郷である。約十年もの間世話になったし、天化の師は崑崙十二仙のひとりだ。それに今、崑崙山には天化の仲間たちも集っている。
 けれど金鰲島を動かしている聞仲ーー聞太師とも天化には浅からぬ縁があった。

「気になるか、天化」

「あぁ……」

 訊ねてきた父に、天化は苦笑した。

「けどそれは親父もだろ?」

「まぁ……そりゃあな、」

 黄飛虎は天化と似た、けれどそれ以上に複雑だといった顔で金鰲島を見上げた。
 天化の父、黄飛虎と殷の太師、聞仲。二人は友であり、そのために黄一族も長いこと聞仲と親しい付き合いをしてきた。天化も仙人界入りするまでは二人の背中ばかりを追いかけていた。
 聞太師は強かった。天化の仙人界入りを後押ししたのも彼だった。父に憧れ、父を越えたいと願っていた天化にとって、聞仲もまた尊敬の対象だった。
 それでも、天化は。

「……俺っち、やっぱあっちにーー崑崙に行くさ。師叔には悪ぃけど、見てるだけってのは性に合わねぇ」

「天化……」

 飛虎はわずかに目を見張った。
 けれどすぐにくしゃりと相好を崩した。

「やっぱり俺の息子だな」

 そう言って、天化の頭を乱暴に撫でた。

「ちょっ、親父!?」

 突然のことに天化が声を上げても父は意に介さない。いつも通り豪快に笑い、けれど「無理はするなよ」と息子の身を案じる。

「まだこないだの傷治ってないんだろ?」

 飛虎の目線は天化の腹部、そこに巻かれた包帯にあった。
 父の言葉に天化は内心ドキリとする。できるだけ隠しておきたかった怪我。血の止まらない傷口。包帯が外せない以上、隠しおおせるとは思っていなかったがーー

「平気さ、これくらい」

 内心の焦りを圧し殺し、天化は笑った。無用な心配はさせたくないし、戦いから遠ざけられるのも認めがたかった。
 何よりーー

「フツーの女の子があそこで戦ってるんさ、俺っちだけ安全なとこになんていられねぇ」

「……名前さんか」

 父親に隠し事はできないらしい。
 言い当てられ、天化の顔には自然と面映ゆい笑みが浮かぶ。
 天化は自身の手首に視線をやった。正確には、そこに巻かれた柳の枝を。そしてそれを巻いてくれた少女の指の細さや、その時天化に向けられた柔らかな微笑を想った。
 それから少女の甘やかな声をーー天化を好きだと言ってくれた名前の真っ直ぐな眼差しや、まろやかな頬に差した仄かな赤色や、風に踊る黒髪がひどく眩しく映ったのを思い出していた。
 彼女もまた天化の身を案じていた。その傷をーー傷口から流れる血が止まらないことを知っているから、余計に。
 なのに彼女は天化の背を押してくれた。太公望の指示を無視しようとする天化の背を。
 そんな名前を好きだと、いとおしいと、どうして思わずにいられようか。共に戦いたいと願わずにいられようか。
 けれど天化は名前の告白に応えなかった。ーー応えられなかった。

「……なぁ、親父」

「ん?」

「どうして親父はおふくろと結婚できたんだ?」

「はぁ?」

「あぁ、いや、そうじゃなくて……」

 天化は目をさ迷わせた。言葉を探し、それから怪訝そうな顔をした父を見た。

「いつ自分のことを認められたんだ?おふくろと結婚してもいいって、そう自分を認められた?」

 己を卑下しているわけではない。接近戦には自信があるし、修行だって怠っていない。
 ただ冷静に考えて、考えた結果、天化は名前に応えられなかった。自分がまだ未熟だと、そう思ったから。
 天化は真剣だった。にも関わらず、「バカだなぁ」と飛虎は笑った。

「バカってなんさ!」

「だってよぉ、天化……」

 笑って、また頭を撫で。父は穏やかな目で、息子を見下ろした。

「らしくないぜ、ごちゃごちゃ考えるなんて。お前はオレに似てんだから……性に合わねぇことしてんじゃねぇよ」

「親父……」

 父の手は大きかった。大きく、力強く。飛虎は天化の背中を叩いた。

「強くなることに限界なんかねぇ。だからお前を認めるのもお前自身じゃない。……お前はもう認められてるんだよ、名前さんに」

「……そう、なんかな」

「なんだ、おめー信じらんねぇのか、名前さんのこと」

「……いや、」

 天化と名前の間に交わされたやり取りを飛虎が知っているはずがない。なのに父親には何もかもお見通しだった。
 ーーまったく、敵わない。
 天化は頬を掻いた。やはりこの人を越えるのは難しいと痛感しながら。

「なぁ、親父」

「なんだ、天化」

「俺さ、名前のことが好きだ」

 言葉にしただけだ。ただの独り言のようなもので、ここに名前はいない。彼女には何も伝えられていない。
 なのにそれだけでスッと心が軽くなった。頭が冴え、視界は晴れていった。
 名前が好きだ。意思の強さも生真面目なところも高みを目指し続ける姿勢も。彼女の生き方が好きだと、ずっと思っていた。それこそ、出会った当初から。
 好ましいと思った。一番は武人としての生きざまに。それからは彼女自身の真っ直ぐさに惹かれた。嘘のない言葉や、雄弁な瞳に。いつしか天化はそうしたものを美しいと思うようになっていた。
 共に在りたいと思う。名前の隣に、これから先もずっと。

「なら、やることはひとつだ。そうだろ?」

「あぁ、」

 天化は顎を引いた。
 こんなことにまで父の力を借りるとは情けない。が、お陰で踏ん切りがついた。

「ありがとな、親父」

「いーってことよ。ま、名前さんなら俺としても大歓迎だからな」

「なんだよ、それ」

 うんうんと腕を組む父を見、天化は笑った。気の早いことだ。けれど悪い気はしない。父の言葉も、そこから思い描かれた未来も。手に入れたいと天化は思った。

「しかしそうなったらますますうちは武闘派になっちまうな」

「いいじゃねーか、鍛練の相手が増えるなんてよ」

 武成王の位をいただいているというのに、黄飛虎はまだまだ研鑽を積む気のようだ。
 父らしいと天化は呆れたが、しかし口角は上がったままで。父がいて兄弟がいて、そして名前がいる。そんな修行風景がこれから先も続いていくことを思うと、どうしても頬を緩めずにはいられなかった。

「そういや親父はなんて言っておふくろを口説き落としたんさ?」

「あ?あー……そりゃあアレだ、俺ら二人の秘密ってヤツだ」

「秘密って……似合わねぇさ」

 珍しく照れた様子の父に、天化は吹き出した。
 よほど恥ずかしい思い出でもあるのか。飛虎は「笑うんじゃねぇ」と天化を小突いたが、その耳は赤らんだままであった。天化としてはあわよくば参考にさせてもらおうと思っていたのだが……これでは聞き出せそうもない。
 こういう時母がいてくれたらと、もしくは叔母がいてくれたらと思う。二人もきっと名前を気に入ってくれたろうし、今よりもさらに賑やかな未来があったに違いない。
 だがそれはもう叶わない。それを寂しく思いながらも、天化は自分の描いた未来に一抹も不安を抱いていなかった。父がいて、兄弟がいて、名前がいる。そんな未来が来ることを信じていた。疑う余地なんて、ひとつもなかったのだ。