組織壊滅後記憶喪失になる


 夕刻、帰り道。その途中でどこかの家から香る食事の匂いが好きだった。どこかにある家庭のどこにでもある普通の生活に思いを馳せるのが昔から好きだった。
 だからそんな香りが自分の家から漂ってくることが今でも信じられない。どこにでもある普通の家庭らしい料理の匂い。それを嗅ぐだけでほんの少しの距離すらたまらなく、駆け出したくなる。

「おかえりなさい、零」

 開いた玄関の向こうに明かりがついていることに。出来立ての料理が用意されていることに。おかえりなさいと迎えてくれる人がいることに。

「……ただいま、名前」

 とある組織が壊滅し、数年が経った後も降谷零は信じられずにいた。

「今日は早かったのね」

 彼女の存在を確かめるための抱擁。習慣となったそれは名前にとっても同じで。彼女はなんの疑いもなく零に応えると、その腕の中で零の顔を見上げた。
 降谷零の親族として高校を卒業した彼女は、今ではもうどこにでもいる普通の大学生にしか見えない。人種の違いはあるが、それは零も経験したことで、彼女もまたその時々で乗り越えるための努力をしている。
 障害といったらそれくらいの、以前では考えられないほど平和な日々。その象徴である彼女に額を重ね、零は微笑んだ。

「あぁ、部下が気を利かせてくれるから……」

「あ、それ、風見さんでしょう」

「あたり」

 戯れに鼻先へと口づける。名前は擽ったいと笑いながら身をよじった。けれど抵抗はない。ただ彼女は零の手を引き、「早くご飯にしましょう」と言った。

「うん、美味しい」

 手を洗い、それからふたり揃ってテーブルにつく。そんなことにも幸せを感じているなんて名前はきっと知らないだろう。
 でもこの言葉に名前の目が細められたのは幸福のためであろうと零は信じている。たとえそこに大きな隔たりがあろうともーーその事実に胸が痛もうとも。

「でもまだまだ零には敵わないわ」

「ははっ」

 悔しそうに唇を歪めるのは昔から変わらない。組織にいた時からずっと。そういうところに気づくたび、喜びと悲しみに似た感情が沸き上がる。
 それを隠し、零はかぶと豆腐のけんちん汁を啜った。自分が作りおきした出汁を使ったそれに笑みがこぼれる。名前はまだまだだと言うが、彼女は着実に成長している。たとえ記憶がなくとも。二十年近い欠落があろうとも、彼女は確かに生きていた。

「明日も早く帰れそうだし今度は僕が作るよ。何が食べたい?」

「うーん……、お肉もいいしお魚もいいし……。前に食べた牛肉の……しょうゆで炒めたやつとか」

「ああ、セロリとパプリカの」

「そう!……あ、でもこの時期なら鯛も捨てがたいわね……。バター醤油をかけたのがすごく美味しかったわ」

 相変わらず食べ物のこととなると名前は饒舌だ。ころころと変わる表情に、笑みが深まる。

「いくらでも作ってあげるよ」

 そうだ、悩むことなんてない。もう名前が死に瀕することもあり得ないのだからーー。
 なのに焦燥は変わらず胸にある。組織がなくなろうと、名前が狼でなくなろうと。
 ーー彼女から組織の記憶がなくなろうとも。

『あなた、誰?』

 組織との抗争のなか。降谷零を庇って生死をさ迷った名前は、その命の代償としてこれまでの記憶をすべて失っていた。組織の実験体であったことも。スコッチという男と出会ったことも。ーー降谷零を愛したことも。
 自身にまつわるすべての事柄が彼女のなかから消えていた。それは怪我をしたショックからなのか。はたまた精神的なものなのか。わからないが、全生活史健忘であろうと診断された。
 彼女の記憶の喪失は部分的なものではない。だからその記憶を呼び起こすか否か、その判断は零に一任された。それほどのショックを受けたのだから思い出さない方がいいのかもしれない、と。
 結論として、零は思い出させない道を選んだ。そのことに後悔はない。時間を巻き戻したとしても同じことをしただろう。
 ただ時折名前の夢を見る。今はもういない、狼である名前の。彼女と過ごした日々を。思い出しては、ただ夜が明けるのを待っていた。

『飼い殺しにされるほど彼女が弱いとは思えんがね』

 そう言って、煙を吐いた男の横顔も。
 殺したいほど憎んでいた男は名前の狼としての能力を買っていた。だから零が彼女の力を封じるよう宮野志保の協力を仰いだのを知ると、男は暗に反対の意を示した。

『名前は記憶を封じた。それも自分で。それは彼女が自身を守るためにしたことだ』

『……本当にそう思っているのか?』

 だから彼女を守るために真実に蓋をする。 
 零の反論に、男はようやく目を合わせた。
 病院の屋上。白さと青さの狭間では男の纏う黒は明らかに異質だった。それは水に溶けるインクのようで、放っておけば何もかもが彼に塗り替えられてしまうような気がした。

『……何が言いたい』

 だから零は圧し殺した声で言った。何もかも見透かしているといわんばかりのすかした目を睨み返した。
 だが男は明確な答えを与えてはくれなかった。ただ、『優先順位の問題だ』とだけ。

『彼女にとって守るべきものがなんだったか。……君ならわかるだろう?』

 答えないでいると、男は肩を竦めてみせた。それ以上お得意の推理とやらを披露するつもりはないらしい。

『しかし勿体ないことをする。うちなら放し飼いにしてやれるんだが』

 なのに余計なことは言い残していくのが男の悪い癖だった。
 男にとってはただの軽口だったかもしれない。だが零のなかでは確かな傷となって今も残っていた。

「どうしたの、零?」

 いつの間にか箸が止まっていたらしい。
 名前の心配そうな顔に、慌てて「なんでもない」と笑みを形作る。

「疲れてるのかな、自分じゃあんまりわからないけど」

「それなら早く寝ないと。あっ、洗い物は私がやるから零は先にお風呂入っちゃって」

「あぁごめん、ありがとう」

「なに言ってるの」

 うそつきに、純真無垢な名前は微笑む。あまりに穏やかに、温かく。少女のような母親のような柔らかな目で、いつだって彼女は降谷零に笑いかけるのだ。

「お礼を言わなきゃいけないのは私の方。……いつもありがとう、記憶をなくした私はあなたがいなくちゃどうしようもなかったもの」

「……そんなこと、ないよ」

 零に言えたのはそれだけだった。それを言うのがやっとだった。
 本当なら名前にだって選択肢はあった。記憶を取り戻す道も。その先でどう生きるかも。
 それらを奪ったのは零だ。何もかもを取り上げて、彼女にひとつの道だけを与えたのだ。
 赤井秀一が言いたかったことも本当は理解していた。優先順位の問題だ。名前にとって守るべきものはなんだったか。
 ーーそんなの、降谷零以外にいるはずがない。
 彼女はわかっていた。降谷零が協力者である彼女を守ろうとすることを。組織の一員であった名前を、たとえその選択が周りから非難されようと。
 だからこそ名前は記憶を捨てた。降谷零に保護という名目を与えるために。
 名前は無意識下で己を殺したのだ。

「本当にどうしたの?泣きそうよ」

「なんでもない、なんでもないんだ……」

 彼女は躊躇うことなく手を伸ばすと、そっと零の頭を撫でた。その温もりにまた、泣きそうになる。

「……ねぇ名前、君は今、幸せかい?」

 きっと彼女は幸せだと答えるだろう。何も知らない名前も、そして記憶と共に死んでいった名前も。
 だからこそ泣きたくなる。なのに降谷零には微塵も後悔はなかったし、戸惑いながら「あなたは?」と聞き返す名前にも頷くことができた。

「あぁ、幸せだよ」

 思い描いていた理想があった。ただの夢にすぎないと諦めていた願いがあった。
 それが今、手のなかにある。だというのに言い知れぬ不安を拭えないでいた。