探偵の行くところ事件はありといったところで。テニスの特訓などほとんどできず、園子の別荘に行くこともなく、名前たちは解散した。しかもこういったこと――つまり旅先で殺人事件に巻き込まれるといったこと――は初めてではないらしく。というか、よくあることのようで、蘭は慣れたように「ほんと困っちゃうよね」なんて笑ってた。園子もがっかりはしていたが、関心は事件よりも彼氏の方にあって。彼女は「真さんに簡単に負けたらどうしてくれるのよ」と肩を落としていた。それも名前が「女の子はか弱い方が好感度高いですよ、きっと」と言ったらあっさり立ち直って帰っていったが。
「あの子、呪われてるんじゃないの」
帰り道、ベルモットとの通信を終えた透の隣で名前は零した。あの子――江戸川少年はしょっちゅう事件に遭遇しているという。どんな不運の持ち主でもいやいやそれはさすがにおかしいだろうと名前は思うのだが。誰も疑問に思わないあたり名前がおかしいのだろうか。どう考えても平然としている彼がただの小学生には見えないのだが。
「まぁただ者ではないだろうね」
透は不敵な笑みを浮かべた。コナン君には今回の事件のからくりが読めていたようだからね。おまけに僕の前では挙動不審だったし。彼がどうして眠りの小五郎を演じているのかはまだ分からないけど――
「でも彼を探ればヤツに近づけるだろう」
透は確信を持っていた。悠然とした態度。それを見ているとなんだか誇らしくなってくる。透はすごいのよ、と言ってやりたくなる。主に赤井秀一に対して。
帰宅すると留守番が入っていた。電話の主は喫茶ポアロの従業員、榎本梓だ。『明日から来るってお聞きしましたけど本当に大丈夫ですか?』無理はしないでくださいね、と柔らかい声が流れる。
そういえば明日からポアロのバイトに復帰するんだった。名前は自分の足を見下ろした。まだリハビリを必要とする身体。名前を案じた透は1週間の休みをもらっていたけれど、しかしそう長くは休めない。
「私なら大丈夫」そう名前は言うのだけど、透は思案していた。「名前の大丈夫は当てにならない」と言って。
「本当に大丈夫よ、これくらい」
「あんなに熱出して魘されてたのに?」
――それは1週間も前の話でしょう!
「松葉杖も車イスもあるし、なんならポアロにだって行けるわ」
それはほんの冗談だった。言葉のあやというやつで、まったくその気はなかった。なのに透は名案だ!とばかりに手を叩いた。「それがいい!」名前の肩が掴まれる。
「名前もポアロにいればいいんだよ」
いい笑顔で言い放つ透。名前は耳を疑った。「そんなの邪魔なだけじゃない」名前は従業員でもなければ客でもない。きっとポアロの店長も断るだろう。そう思ったのだけれど。
「わ〜!この子が噂の従妹さんなんですね!」
翌日。
名前は榎本梓に歓迎を受けていた。
どうしてこうなったんだろう。「よろしくね!」と梓に手を握られる名前の目は遠い。「よろしくお願いします……」覇気なく答える名前と一緒に、車イスを押す透も頭を下げた。
「すみません梓さん、無理を言って」
「いえいえ全然!マスターも気にしてませんよ〜。というか、逆に楽しみにしてたくらいで」
噂通りかわいらしいですね、なんて名前を褒める梓。かわいらしいというのは無邪気に笑う彼女のことを指すだろうに。名前はお礼を言いながらそう思った。
榎本梓は本当に『いい人』だった。善良で心身ともに美しい。マスターの方も「ゆっくりしていって」なんて言ってくれた。こういった厚意に甘えるのはすごく居心地が悪い。透は平然としているが。
「酷い怪我だって聞いてたけど元気そうでよかった」
今日初めて会ったばかりの人間に対して心からそう言えるのはあまりに人がよすぎる。梓が言うには、透や蘭から話を聞いていたから初対面という気がしないということだったが。名前にはとても真似できない。
名前はカウンター越しにコーヒーを受け取りながら答えた。「ええ、そうなんです。本当に私は元気なのに」サンドイッチを作る透に視線をやる。
「お兄様は心配性なんですよ」
透は笑った。「だから本当に助かりました。目の届くところにいてくれないと安心できませんから」梓もクスクスと笑う。
「本当に大切にされてるんですね」
……他人からも、そう見えるのか。名前は眉を下げた。「そう、ですね」透が、名前を大切にしている。それは、安室透として?それなら納得できる。だって彼は気さくなキャラクターだから。でもバーボンも名前を気遣ってくれる。
それは彼が優しいからよ。それにスコッチの件も赤井の件もあるんだもの。名前に優しくすることで得られる利があると彼は考えたのかもしれない。そう、彼の事情を鑑みればそれは自然なことだ。
別にそれでも名前はよかった。彼と共にあれるだけで幸福だった。それは真実だ。
なのに。
なのに、胸が痛むのはどうしてだろう。
「名前?」
「……いえ。それよりコーヒーおいしいです」
怪訝そうな透から名前は逃げた。梓は二人の空気に気づくことなく名前の言葉に喜ぶ。
「でしょう?安室さんおすすめの豆を使うようになって好評なのよ」
「いえそんな……」
梓と透。純朴な女性と影のある男。それはまるで、どこかのドラマみたいな。二人の前にはいくつもの苦難が待ち受けるけれど、最後にはハッピーエンドで終わる物語。そんなものを名前はみた。
透はよく働いた。彼は接客業も手際よくこなした。笑顔を振り撒く姿は本当の従業員みたいだった。きっと彼はなんにでもなれるのだ。名前はそう思った。
「そういえば、そろそろ彼が来る時間では?」
夕刻。透は時計を見やった。彼の言葉に梓はあっと声を上げる。「そうでした!」梓は皿を手に慌ただしく駆けていく。
「彼?」
首を傾げた名前に、透が説明してくれる。「野良猫だよ」この時間になるといつも餌をねだりにくるんだ。透は言って、車イスを押した。「透?」何するの?見上げると、ずっと遠いところにある彼は微笑んだ。
「名前にも紹介してあげようと思って」
猫の名は大尉といった。野良猫のわりにずいぶんと大層な名前をもらっている。
「かわいいでしょ」梓が撫でてやるとその猫は目を細めてすり寄った。にゃーん。甘えたな声。
一応は同意したが、とても好意を持てそうになかった。梓のみならず、透が撫でても気持ち良さそうにしている猫。その顔を見ているとなんだか腹が立ってくる。
「もしかして猫ダメだった?」
透の言葉に、梓は驚く。「アレルギーとか?」彼女にとってはそれ以外の理由で猫を好まないとは考えられないようだった。
「ダメというわけでは……」
歯切れの悪い返事。別に猫が嫌いなわけではない。だからこそなんと言ったらいいのか。適切な答えが見つからず、名前は目をさ迷わせた。ダメなわけではない。ただ、気に食わないだけで。
透は猫から手を離した。
「名前はどちらかというと犬ですからね」
「そうですか?猫ちゃんっぽいなぁって思いましたけど」
二人は好き勝手なことを言う。
……この猫に似てるというのか。名前はじぃっと大尉を見た。白黒茶の毛並みに間抜けな顔……いや似てないだろう。だって名前の毛並みは金だし見た目だってキリッとしているはずだ。だって誇り高い狼だもの。
「名前ちゃんって本当に可愛いですよね〜」
「そうでしょう?」
「やだもう、親バカですか」
「ははっ、そうかもしれません」
……いつから透が私の親になったと言うの。親というならスコッチの方が親らしかったと思う。無言の訴えは、しかし完全に受け流された。
「まぁ僕としては親というより……」
透は意味ありげに名前を見る。何かを込めた視線。でも名前には分からない。なのに梓には見当がついたようで。
「安室さんならきっと大丈夫ですよ!」
と言って両手をグッと握った。「応援してますね!」いい笑顔だ。いい笑顔なんだけれど。
「なんの話?」
梓に分かって名前に分からない。それは悔しいものだ。だから正答を求めて、セーターの裾を引っ張りせがんだのに。
「内緒」
透は口に指を当てて悪戯っぽく言っただけだった。