蓮花山


 優れた霊獣である四不象は、手紙を送ってからそう日が経っていないにも関わらず、蓮花山にいるふたりの元までやって来た。太公望が自堕落に桃を貪っている間に、だ。

「名前ちゃん!」

 「お久し振りっスねぇ〜」と笑う四不象も太公望と同じで見た目に変わりない。お久し振りというにはあまりに長い時間が過ぎているというのに。まぁ、それはあくまで人間視点での話ではあるのだが。

「まったく名前ちゃんまで急にいなくなっちゃうんだから心配したっスよ〜!まさか御主人と一緒だったとは……」

「ごめんなさい、ただあまり人に言うような理由でもなかったから……」

 名前は思わず苦笑した。
 女カとの戦いの後。一度周へと戻り、それから仙人界へ向かうか決めるつもりだった。
 けれどそこで武王に求められーー名前は過去と決別する道を選んだ。そしてそんな心では清浄な蓬莱島に足を踏み入れるわけにもいかず。結局名前はひとり旅に出た。
 ーー太公望とさえ、出会わなければ。

「でもスープーどのも息災のようで安心しました。……嬉しいです、またあなたと会えて」

「名前ちゃん……」

 四不象を見ていると過去に戻ったような錯覚を覚える。あまりに長いこと太公望とふたりきりでいたせいか。
 けれど悪い心持ちではなかった。むしろ言葉通りの喜びを名前は感じていた。また会えて嬉しい。胸にあるのはただそれだけだった。 
 名前が声を滲ませると、四不象まで釣られて言葉を詰まらせる。うるうると潤むつぶらな瞳。変わりのない愛くるしい容姿。その輪郭へと名前は手を滑らせた。

「あぁ〜、この感覚懐かしいっス〜!気持ちいいっス〜!」

 撫でるだけで喜んでくれるのもあの頃から変わらない。名前は「わたしもです」と笑みをこぼした。
 長旅を経た体は土埃で汚れていた。けれどその体が柔く、触れるだけで心を慰めてくれるのも相変わらずで。

「後で一緒に水浴びしましょうね」

 せっかくだ。この再会を思いきり堪能しよう。
 名前はもう四不象を構いたくて仕方なかった。
 四不象も「やったっス!」と声を上げ、しかしさっと太公望に目を移した。

「名前ちゃんに比べて御主人ときたら……」

 愛らしい声を精一杯鋭くさせ、四不象は太公望を睨む。

「御主人……ずっと行方不明だったのに急に手紙で呼び出されたと思ったら……」

 四不象が懐から取り出した太公望からの手紙。『スープーへ』と題されたそれは、たった三行の本文で構成されていた。
 なのに何故かご丁寧に太公望と四不象の似顔絵が描かれているし、四不象からの返答である『了解っス』という言葉まで太公望は書き添えていた。手紙なのだから四不象の答えなど太公望にはわかりやしないというのに。

「桃食べ放題ツアーに出てぶくぶく太っていたなんてなさけないっス!これじゃたい公望じゃなくてふと公望っス!!」

 それは名前も気になっていたことだ。
 のんびりとした旅。おまけに格別美味い桃を食べるのが目的とばかりに日々を過ごす太公望の体はすっかり鈍っていた。簡単に言えば、四不象の言う通り太公望は太っていた。
 四不象は名前と違って遠慮などしない。容赦なく指摘し、その指で太公望の腹をぶにぶにとつついた。

「あぁっ!聞いてないっス!!人の話を全然聞いてないっスよ!」

 なのに太公望はなんの返事もしない。どころか、桃を食べるのさえやめなかった。

「太公望さんったら……」

「こんなダメ道士今度こそ嫌気がさしたっス!もうスープー谷に帰らせてもらうっス!」

 四不象は言い、今度はまっさらな紙を草原に広げ、筆をとった。

「名前ちゃんもこんなアホ道士に付き合ってちゃダメっス!一緒にスープー谷に帰るっスよ!!」

「それはなかなか魅力的な……」

 名前はごくりと唾を飲んだ。
 スープー谷。話でしか聞いたことのない地への誘いは名前にとってとても魅力のある話だった。なにせ名前は四不象が好きだ。その性格はもちろん、容姿も含めて。太公望へ向ける感情とはまた別だが、いとおしいと思うのは共通していた。

「おい、名前……」

 そしてこれにはさすがの太公望も反応を示した。聞き捨てならない、と身を起こそうとした彼は、しかし「む!?」と驚きの声を上げた。

「神農……」

 名前でも四不象でもないところを見ている目。そして聞き覚えのある名に、名前も四不象も顔を上げる。
 太公望の視線の先を辿り、それからーー

「ギャーーーーーーーー!!」

 叫ぶ四不象と、言葉を失う名前。
 それも当然だ。なにせ桃の木の上に人影があったのだから。
 それもただの人ではない。膨れた後頭部。黒く大きな目。鼻であろう位置に空いたふたつの穴と小さな口……。

「じょじょじょ女カさんス!また世界は終わるっス〜〜〜!!」

 それは以前戦った強敵、女カと共通するものだった。
 ーーしかし、

「あ、いけない。人間の姿をとらないとね」

 そう言いながら変化した姿も、その声も、記憶にある女カのものとはほど遠かった。
 灰色の髪に鮮やかな緑の目。成人男性とおぼしき声。そのどれをとっても女カとはかけ離れている。

「太公望さん、彼はいったい……」

 ひとり動じていない太公望。彼にそろそろと訊ねると、「こいつは女カではない」とあっさり答えをくれた。

「『最初の人』のひとり、神農だ」

 その紹介に、「や、ども」と男は気さくに手を挙げた。気の抜けた返事にピースサイン。男の様子に、身構えていた名前も警戒を解いた。
 最初の人。はるか昔、この地球に移住してきた五人の生命体。そのうちのひとり、女カは滅んでしまった故郷をこの星で再現しようとしーー伏羲に敗れた。
 そして件の神農といえば、地球の自然と融合する道を選んだ三人のなかのひとりであったはず。そんな彼がなぜ姿を現しているのか。
 疑問符を浮かべる名前に、太公望は笑みかけた。

「自然そのものになったこやつらだが……自然エネルギーのたまり場であるパワースポットではかすかに形が保てるのだ」

「な、なるほど……」

「驚きっス!ただの桃の食い倒れ旅行じゃなかったんスねぇ!」

 四不象の素直な物言いに、太公望は一瞬「心外だ」と言いたげな顔をした。けれど神農に呼び掛けられ、視線は引き戻される。

「何のために僕らに会いに来たのさ?暇なの?」

「いや……」

 立ち上がった太公望に先程までの緩さはない。真剣な眼差しに、名前の体まで固くなる。

「あれがどうなったかが気がかりでのう……。おぬしらとともに消えた最後のスーパー宝貝 、禁光ザ……」

「スッ……スーパースか!?」

「うむ。しかも過去にタイムトラベルできるというとんでも宝貝だ」

 ぎょっとする四不象と共に名前は目を見開いた。
 スーパー宝貝。その威力は実際目にした名前ですら未だに信じられないほど強力なものだった。それがまだ他にあったなんて……しかもその能力が過去への時間移動となると、あまりに厄介だ。悪意ある者に利用されたら、過去現在未来が自由に書き換えられてしまう。

「あんな危険なものがこの世界に残っているかもしれんと思うと気がかりでな、おいそれとおぬしたちと合流できぬのだ」

「えっ!?」

 再び狼狽える四不象。けれど今度ばかりは名前も動じなかった。
 ーーもう、知っていたから。
 パワースポットの話が出た後。太公望はぽつりぽつりと名前に話してくれた。
 『最初の人』である伏羲の力は強大だ。そして強大な力というのは時として人の世では害となる。第二の女カとならないために、彼は神農たちと同じ道を行くことにしたのだ。
 だから名前に動揺はない。むしろ得心がいった。以前彼が約束してくれた「一人にはしない」という言葉の意味。神農の存在を知ることで、それを理解した。
 自然エネルギーのたまり場であるパワースポットではかすかに形が保てるーー
 ならばきっと名前が太公望と共にいることも不可能ではないのだろう。
 ーーでもそんなのは屁理屈と一緒だわ
 名前は思ったけれど、我が儘は言えなかった。ただ痛む胸を押さえるだけで、神農が禁光ザを取り出すのを静観するだけで。
 進んでいく時を、迫る別離を、見守ることしかできなかった。

「おぉ、そうであったか!なら安心だのう!」

 太公望の懸念であった禁光ザの在処。それは意外なことに神農の元にあった。
 だからこれで太公望にはなんのしがらみもない。気兼ねなく地球と融合することができるだろう。
 名前は覚悟を決めて、掌を握り締めた。
 ーーのだけれど。

「暇なら行ってみる?」

 ーー過去。
 神農の何を考えているかわからない笑顔を最後に、名前の意識は途切れた。