豊邑


 意識を取り戻した名前が目にしたのは、どこか見覚えのあるーー懐かしい景色だった。
 乾いた風。土埃の香り。名前の前に広がるのは、今ではもう過去のものとなった豊邑の町並みだった。

「いったい何が……?」

 呆然とした呟き。途切れる前の記憶を辿ろうとしたところで、隣に倒れていた太公望の口から呻き声が洩れる。そしてその近くに同じく倒れていた四不象からも。
 名前は我に返り、慌てて「大丈夫ですか!?」と訊ねた。

「うぅ……」

 どうやら頭を打ちつけたらしい。手で押さえながら、太公望はのそりと起き上がる。
 だが外傷はないようだ。痛みに顔をしかめる太公望をためつすがめつ眺め、その体に怪我がないことに胸を撫で下ろす。
 太公望も名前の姿を認めると、「おぬしこそ……」と最初にその身を案じた。
 心配そうな顔。そんな彼に名前は小さく笑み、首を振る。

「私は大丈夫です。ただ……」

 一体何が起こったのか。
 名前が視線を走らせると、太公望もその先を追いかけた。その先、目の前に広がる景色を。
 太公望ならば何かわかるかも。そう思ったのだけれど、彼にも心当たりはないらしい。放り出された屋根の上で、太公望は訝しげに辺りを見回した。

「ここは……?」

「それが、」

 名前がわかる限りの現状を説明しようとした時だった。

「……っ!」

 頭上に、大きな影が差す。
 太陽は遮られ、不穏な気配に満たされる西岐の町。
 そしてーー

「なっ……!あれは花狐貂!?」

「魔家四将の宝貝っスよ!」

 倒壊する家々。飛び散る木材。ーーそれらを呑み込む巨大な影。翼を持った怪物、花狐貂には容赦などない。何もかもを食い尽くす勢いで、町を縦横無尽に泳いでいた。
 そしてそれは見覚えのある光景でもあった。

「しっ……神農のやつどういうつもりだ!?わしらを過去に飛ばしおった……!!」

 花狐貂の出現。魔家四将の襲撃。それにより、名前にも現在が過去であると理解できた。記憶が途切れる寸前、神農が言った言葉は真実だったのだ。

「御主人!花狐貂が町を食べちゃうっスよ!早くやっつけるっス!」

 四不象の言う通りだった。今すぐ手を打たなければ無辜の民が傷つけられてしまう。そんなことはわかっている。だって名前は未来から来たのだから。多くの命が奪われた未来を知っているのだから。
 けれど、名前は剣を握り締めることしかできなかった。唇を噛んで、今にも駆け出そうとする心を抑えることしか。

「できるかダアホ」

「えぇっ!?どうしてっスか!?」

「考えてもみい。ここは過去だぞ!」

 未来から来た者が過去に手を加えてはならないーー。
 太公望は極めて冷静であった。落ち着いた顔で、焦る四不象に言い聞かせる。

「タイムトラベラーが過去に行って枯葉を一枚踏んだだけで未来がまったく変わってしまうという話もあるくらいだ。過去で何かしたら未来にどんな影響がでるかわからん」

 そう冷静に言う一方で、太公望も心を痛めていることを名前は知っている。彼は、そういう人だから。
 そんな彼は、こんな時にも名前を気遣う。
 太公望は声を落として、「おぬしにはつらい思いをさせるが……」と名前を窺い見た。
 その優しさに、だからこそ名前は笑みでもって返した。

「……いいえ、大丈夫です。わかっていますから」

 名前には救えない。過去も今も。救えなかった命ひとつひとつを記憶する。できるのはそれだけだ。
 それが苦しくないといえば嘘になる。諦めることというのはいつだって苦しみを伴う。けれど太公望に気に病んでほしくはない。同じ痛みを抱える者として。何より、名前が愛した人だから。
 そう話している矢先。
 空に暗雲が立ち込め、ゴロゴロと低い唸り声が響き出した。

「む!?」

 太公望が声を上げたのが先か、それとも後か。
 凄まじい音を立てて、雷が落ちた。それは名前たちのすぐ近く、前方にある建物に向かってだった。

「おぉっ!あれは……雷震子!」

 喜びを滲ませた声。空を見上げれば、懐かしい人影がひとつ、宙に佇んでいる。一対の黒翼。体に纏った閃光。見間違えようもなく、それはかつての仲間、雷震子であった。
 尤も、名前にとっては道士というより西伯侯姫昌の百番目の子という印象の方が強いが。
 だが、彼がいるということはーー
 その時、咄嗟に"彼"の姿を探してしまったのはほとんど無意識だった。花狐貂。魔家四将。彼らが現れたのだから、と。
 そしてすぐに見つけてしまえたのは、名前が今でも彼を愛しているからだろうか。

「あ!あそこには昔の御主人がいるっス!」

 四不象の声がどこか遠い。
 名前の目はもはや一点から動かせなかった。引き寄せられ、惹き付けられた。視線も、心も。

「天化さんや楊ゼンさんも……!!」

 視線の先には天化がいた。楊ゼンに介抱される、血にまみれた彼が。
 この光景だって覚えのあるものだ。なのに名前が抱いているのは当時とは異なる感情だった。
 憧れていた。目を奪われるほどに。天化の迷いのない太刀筋を、美しいと思った。憧憬と羨望。そればかりを抱いていた。
 けれど今、名前の胸を占めるのは焦燥感だった。倒れ伏す彼の姿が、ここより未来の彼とーー名前が最後に見た彼の姿と重なった。この時から彼の未来は、結末は決まっていたのだと突きつけられるようだった。
 だから名前は胸を押さえた。ひどく痛む胸を。唇は戦慄き、震える吐息が空気を揺らしていた。
 今すぐ駆け寄ってしまいたかった。駆け寄って、その手をとって。ーーどうか、死なないで、と。生きてほしいと、願ってしまいたくなった。

「名前……」

 でもできなかった。名前には、どうしたって。
 気遣わしげな声に、名前はそっと首を振る。浮かぶのは苦い笑み。動くことのできなかった過去の自分を笑うものだった。

「……今のわたしにはどうすることもできません。わたしが死んでほしくないと願った彼は、もういないのですから」

 そしてその"彼"にはついぞ伝えることができなかった。わたしのために生きてほしい、と。無様に、身勝手に、縋りつくことができなかった。
 だから目の前にいる彼に、名前はかける言葉を持たない。それに彼が名前の知る天化ではないのと同じで、名前もまた天化の知る名前ではない。天化の知る名前とは、純粋な子供だった頃の名前だ。
 たとえ過去といえど、ここに未来の人間が介入した時点で、もうこの世界は名前の知るものではなくなってしまった。
 名前はまた天化を見つめた。
 愛しいと思う。今も、変わらず。ただそれはひどく穏やかなもので、名前の奥底で微睡んでいた。そこには熱も激情もない。今の名前にまで連なる、思い出の一端と化していた。

「後は、この世界の"わたし"に託します。……未来がどうなるかなど、わたしにはわからないのですから」

 この世界の名前も同じ道を歩むのかもしれない。それでも今ここにいる"名前"と同一存在であるかなんて、名前には判断しようがない。
 しかしそれでいいのだと思う。これはもう、名前の手を離れたお話なのだから。

「……そうか」

 太公望はそれだけ言った。それだけ言って、名前の頭を一撫でした。慰めるように。
 それから、「うむ、」と声色を改めた。

「やつらに任せてわしらは元の時間に戻ろ……」

 そこで太公望は言葉を止めた。表情も、視線も。凍りつき、固まっていた。
 それは尋常ならざる様子であった。だから名前も視線を辿りーー同じように声を失った。

「ぬぉぉ……スープー、おぬし幽霊になっておるぅ〜〜〜……」

「えっ……!?」

 がくがくと膝を震わせながら、逃げの姿勢をとる太公望。その言葉に驚きつつ、自身の体を見やった四不象は、

「ギャーーーーーー!!」

 と叫んだ。それは驚きに溢れすぎていて、目玉が飛び出そうなほどであった。
 幽霊。その言葉が示す通り、四不象の体は透けていた。下半身というべき場所から、彼の体は空気に溶け出しているのだ。お陰で四不象の体は半分ほどにまで減ってしまっている。

「怖いっス!助けるっス!ボク幽霊は大嫌いっス〜〜〜っ!!」

「おちつけ!幽霊なのは自分だぞ!」

 号泣する四不象は必死の形相で太公望にしがみつく。逃げようとしていた彼の腕はがっしりと捕まれていた。

「だ、大丈夫ですよ、きっと……ほら、過去に来た弊害か何かかもしれませんし……」

 ならば元の時代に戻れば直るのではないかーー。
 気休めにしかならない言葉だが、四不象は「名前ちゃん……!」と声を詰まらせた。
 その手は太公望から離れ、今度は名前の手を握っている。だが不安にだろう、それはひどく震えていた。

「どうすればよいのでしょう……?」

「うーむ……、スープーが消えるのはともかくとしてわしまで消えては困る」

 心にもないことを言ってから、「神農を探そう」と太公望は四不象に飛び乗った。彼に手を伸ばされ、名前も恐る恐る、四不象を気遣いながらその背に移る。
 優秀な霊獣である四不象は、以前と変わらない乗り心地をしていた。そして消えかけているにも関わらず、速さは一切衰えていなかった。
 ただ、

「御主人……ボクが死んだらぜったいに呪い殺すっス……」

 と物騒なことを呟いてはいたが。