安室透は喫茶店の従業員である。そんな彼は生来根が真面目なのか、ただのアルバイトなのに――おまけに仮の姿であるのに――喫茶店経営に熱心だった。だから家にはそういった雑誌がよく持ち込まれる。具だくさんのサンドイッチや美しく着飾ったケーキ。誌面は見るだけで食欲をそそられる出来だった。
最初のうちは彼が読んだあとのものを名前は読んでいたが、そのうち名前が先に読み、使えそうなページをチェックしてから透に回すようになっていった。
特に療養中は時間をもて余していたのでこういった雑誌の存在は有りがたかった。引き換え、透から貸し与えられた小説の類いは山となっていったが。
そんな雑誌に喫茶ポアロが載るのだという。
「今日がその取材の日なんだって」
リハビリの帰り、透は他人事のように言った。
「だから今日休みだったのね」この日に予約をとったのもそれ故か。名前は納得がいったと頷いた。「いやいや付き添いのためだよ」と彼は言ったが。
安室透とは仮初めの姿である。組織の構成員バーボンとして動いている以上目立つことは避けねばなるまい。残念がったであろう梓やマスターには申し訳ないが、こればかりは仕方がない。
……きっと話題になったでしょうに。安室透が店員として雑誌に載った時のことを想像してみる。彼なら店をうまいこと売り込むだろう。その類い稀な容姿から写真も大きく取り上げられるに違いない。するとどうだ。今でも既にかっこいい店員がいると評判になっているというのに、それが加速するわけだ。それはすなわち彼の素晴らしさが広まるということで。考えると、やっぱり名前の胸は痛んでしまう。
――どうしてだろう。
これまでなら、そんなことなかったのに。
「……って、透、どこに向かってるの?」
いつもの曲がり角を過ぎて、名前はびっくりした。これでは遠回りになってしまう。まさか透が道を間違えた――なんてことがないのは彼の顔を見れば分かった。
「そろそろ小腹が空いてくる頃合いだろう?」
思わずお腹に手を当てる。ぐう。タイミングがいいのか、悪いのか。お腹の方が先に返事をしてくれた。
「やっぱり」
形のいい唇が弧を描く。名前はむっつりとした顔で車窓の眺めを追った。こんなことまで推理しなくたっていいのに。それとも、よっぽど名前が分かりやすいということか。
「どこに行くか気にならない?」
「教えてくれるの」
「いいや?」
お楽しみ、と笑う彼。振り返った名前はただ弄ばれただけ。透はからかうだけからかって、名前を置き去りにする。
「きっと名前は気に入ると思うよ」
そこは異国の名を持った店であった。そして名前にとってはどこかで聞いたような名前であった。 真っ白な壁やそこに掛かったどこかの海の絵、ガラスのテーブルや楢のチェア。そういったものには覚えがないのに。
それも当然だ――メニューを見て得心がいく。
「これ、雑誌に載ってた、」
透は頷く。「気になってただろ」それは、まさにその通りだが。でも付箋を貼ったページも本もいくらでもある。その中でどうして名前が一番惹かれた店を当ててしまったのだろう。
聞いても、透は教えてくれない。「どうしてだと思う?」なんて逆に聞き返してくる始末。
名前は降参した。「私は探偵じゃないもの」諦めて、メニューを眺める。
だから「先は長いなぁ」という透の呟きは聞き逃してしまった。
「……っ!」
名前が選んだのは雑誌で一目惚れしたパンケーキだった。積み上げられたパンと、散りばめられたフルーツ。ブルーベリー、ラズベリー、クランベリー。それから、艶やかなアイスクリーム。写真で見たまんまだ。
名前はナイフとフォークを握った。ごくり。喉が鳴る。
「いただきます」
ナイフはなんの抵抗も受けずあっさりとパンに沈みこんだ。アイスやチョコレートを巻き込んだそれを口に運ぶ。
「〜〜〜〜っ!!」足をバタつかせたいくらいの感動。爽やかな甘酸っぱさと、しっとりとした甘やかさ。何よりパンケーキの柔らかさといったら!熱々のそれは舌に乗せただけで溶けてしまいそうだった。
「満足できたみたいでよかった」
半分ほど平らげたところで、透がコーヒーしか飲んでいないのに気がついた。
「透は食べないの」
「名前ほど大食らいじゃないからね」
コーヒーだけで十分さ。彼は静かにカップを傾けた。
でも知ってしまった以上名前だけ食べ続けるわけにはいかない。透がいいと言ったって名前の良心が許さない。
「はい、」名前はフォークを差し出した。
「透も食べて。でないとここに来た意味がないでしょう?」
名前としては至極当然のことを言ったつもりだった。これは喫茶ポアロ繁栄のため。他社研究であるのだから、店員の透が食べなければ。
そう思ったのに、透は目をしばたたかせた。
「意味って?」
本当に分からないといった顔。それを見ていると名前が間違っているような気がしてくる。
「……これ、ポアロでも出したいんじゃないの」
そろそろと訊ねる。すると、透は堰を切ったように笑いだした。今度は名前が唖然とする番だ。
「なに、どうしたの?」
「いや、だって。あまりに名前らしくて」
透は頬杖をついた。「あのねぇ、名前」さらりと金糸が揺れる。その間から覗く双眸はゆるく溶けていて。
「僕が君と来たかっただけ――とは考えないの?」
空気が震える。とろりと溢れ出すはちみつみたいな視線。砂糖を振り掛けたような語調。空気はもうどんなスイーツより甘かった。
「そんなの、」想定外だ。呟くと、透は大仰に息を吐いてみせた。
「先は長いと分かってたけど、これほどとはね」
言っている意味は分からないが、呆れられているのは分かる。
「ごめんなさい……」叱られた犬みたいに肩を落とす。近づいたようで、名前は全然透のことを分かっていない。それを痛感した。
「……謝るより、やってほしいことがあるんだけど」
透が身を乗り出す。投げ出されたフォークを拾って、また名前に握らせて。「さっきの、やってほしいな」にっこり。
さっきの?一瞬戸惑った。けれどそれが透の望みなら、と。
「はい、」
名前は透の口にパンケーキを運んだ。
「うん、おいしい」満足そうに透は笑う。そして、「あぁ、そんなに気に入ったならこれからは僕が作ってあげるから」これに負けないくらいのを、作ってあげる。
「だから、早く追いついてくれよ」
その言葉も胸の高鳴りも意味が分からなかったけれど。
彼の笑顔に気圧されて、名前は頷くしかなかった。