豊水西岸


「まったく神農のやつ……先に言っておれば二度手間にならず済んだものを……」

 再度禁光ザにより時間の矢へと吸い込まれた太公望はぶつぶつと恨み言をこぼしていた。
 荒涼とした大地の広がる未来。本来の時空に生まれた変化を、自分たちが過去に飛んだせいではないかと疑った。ーー当初は。
 けれど神農の答えは否であった。

『雉鶏精が現れたんだよ』

 地鶏精の孔宣。未来にも過去にも自由に飛ぶことのできる胡喜媚の同族が、過去の豊邑に降り立った。そのせいで歴史は変わり、女カによって世界は滅ぼされたのだと神農は言った。
 対処法はただひとつ。

『伏羲よ、すぐにあの時代に戻り、彼を時間のはざまに追い出すんだ』

 そのために名前たちは再び過去へと遡っていた。

「しかし雉鶏精というと……わたしたちだけでは力不足なのでは」

 胡喜媚と実際に戦ったことがあるのは太公望だけだ。けれどその際彼は封神されている。それほどまでに雉鶏精の持つ力は強大なのだ。孔宣とて例外ではないだろう。胡喜媚と同等、もしくはそれ以上に強いと思っていた方がいい。
 対してこちらの戦力といえば、王天君の力が欠けた太公望のみである。道士としてはまだまだ半人前の名前ではなんの助けにもなりはしないだろう。
 そう、名前は危惧するのだが。

「問題ない!こちらから奇襲を仕掛ければイチコロよ!!」

 別に倒す必要はないしな、と太公望は笑う。
 何か策があるのか。
 名前は四不象と顔を見合わせた。が、答えが出るはずもなし。

「大丈夫っスかねぇ……」

 これが取り越し苦労に終われば良いのだが。

「よし、見えたぞ!」

 目的地は以前と同じ、眩い輝きを放つ場所に向けて飛び込む。
 名前は自身の剣を構え、時空の穴をくぐり抜けた。
 未来では失われた青い空。それを遮る大きな影。それは覚えのある光景だ。
 けれどもうひとつ。花狐貂のすぐそばに小さな影があった。羽ばたく人の姿。それは名前の記憶にはないもので。

「待て待てまてぇいっ!!」

 彼こそが孔宣なのだと直感した。

「おぬしが孔宣だな!?おぬしが過去で暴れたせいで未来が滅茶苦茶ではないか!!」

 四不象に乗って孔宣の目の前まで迫る。
 雉鶏精孔宣。彼は同族のはずの胡喜媚とはあまり似ていないが、その名に相応しい孔雀の羽を持っていた。
 しかしその目はただの鳥のものではない。殺しに慣れたーー殺しに餓えたものだった。

「なんの目的でこの時代に降り立ったのかしらんが、おぬしは影響が大きすぎる!何も言わず今すぐ去ってはくれぬか!?」

 説得する太公望の後ろで、名前は孔宣から目を離せないでいた。
 いや、目を離せないのではない。
 離したらその瞬間殺されるーーそれは野性動物を目にした時と同じ感覚であった。
 そしてそれは間違っていなかった。

「殺劫第一号はきさまかッ★」

 その声音に、表情に、ぞくりと体が震えた。
 名前とて数多の戦場を駆けてきた。そこには害意も殺意もいくらでもあった。
 けれどこれほどまでに純粋な殺気を感じたのは初めてだった。
 孔宣は笑っていた。笑っていた、けれど。
 その目には獲物を狩る獰猛な輝きが点っていた。

「さっ……殺劫?」

 冷や汗が太公望の頬を伝う。聞き慣れない言葉から嫌な予感がする。
 そう思った瞬間。

「……っ!」

 名前は横に飛び退いた。四不象の背から、右手を軸にして左へと。
 それは勘だった。そうしなければならないと、体が勝手に反応していた。

「うおっ!」

 孔宣の手が宙を裂く。鋭く、苛烈に。その速さ、重さは、空間すらも切り裂けそうなほどであった。
 けれど名前が避けたのと同じに、四不象もまた攻撃を素早く躱していた。名前分の体重が減ったのも少しはその助けとなったろう。
 孔宣の攻撃は外れた。けれど、名前に喜びはなかった。太公望も、四不象も。
 躱された攻撃。それは遥か後方、数百メートル先にある山を砕いていた。もしもこれを直接体に浴びていたらひとたまりもない。いかに回復力があろうと、暫くは戦闘不能となるだろう。

「御主人ダメっス!このヒトこの漫画によくいる人の話を聞かないタイプっス!」

「ええいいたしかたない!実力行使だ!」

 太公望は打神鞭を取り出した。そして一瞬、地に伏せ息を潜める名前に視線をやった。

「…………」

 それだけで通じた。
 名前が頷いたのを見てとると、太公望は「疾!!」と、打神鞭を横に振るった。
 打神鞭の生んだ風。それは真っ直ぐに孔宣まで駆け、その身を横に裂いた。

「……★」

 流れる血。体勢を崩した孔宣は飛び続けることができない。

「……はっ!」

 その体に、名前は容赦なく剣を突き立てた。太公望につけられた傷目掛けて。突き立て、肉を裂き、すぐに距離をとった。
 しかし油断はできない。剣についた血を振り払うと、名前はまた身構えた。

「かーかかか!悪いのう、だが先に手を出したのはおぬし」

 手応えはあった。確かに。
 それは驚くほど呆気なく。だからこそ名前の剣を握る手は汗ばむ。
 ーーおかしい。
 孔宣がこの時代で戦ったから過去が変わってしまった。そう神農は言った。彼が嘘を言っているとは思えない。
 ーーならばこの呆気なさはなんだ?

「雉鶏精式秘術……」

 まさか孔宣にはまだ秘密があるのではないか。
 名前が考えに至った矢先のことだった。

「巻き戻りッ★」

「巻き、」

「戻し?」

 太公望と四不象が首を捻る。それすらもなぜか名前には二重になって見えた。
 ーーいや、二重などではない。
 名前に動く意思はなかった。なのに操られたかのように体は動いていた。過去をなぞって。
 それは名前だけではなく。太公望も四不象も、そして孔宣すらも。
 その現象は巻き戻しという他なかった。

「停まりッ★」

 気づけば名前たちは当初の地点、豊邑に降り立ったばかりの場所まで戻されていた。

「……さよなら」

 反応する暇すらなかった。
 至近距離にいる孔宣。彼が繰り出す攻撃を避ける時間も、余裕も。

「御主人!!名前ちゃん!!」

 あっという間だった。
 孔宣の爪は太公望を裂き、その体を投げ飛ばす。
 攻撃を受けたのは太公望だけだった。だがその後ろにいた名前も無事では済まない。
 太公望と共に宙に投げ出され、けれどその瞬間、地面に叩きつけられるまでの短い時間の中で、名前はなんとか太公望の体を引き寄せた。引き寄せ、受け身の姿勢をとった。

「……っう、」

 それでも強かに打った箇所が痛み、思わず呻き声が洩れる。
 しかし太公望の痛みはその比ではない。すっかり脱力した体は傷の深さを示していた。

「大丈夫スか!?」

「わたしは……でも太公望さんが」

 名前はさっと視線を走らせた。孔宣が二撃目を放つ気配はない。何を考えているのかわからないが、その間にと抱えていた太公望の体を地面に横たえる。

「いっ……いったい何事が……?」

 呆然と呟く太公望の顔は血にまみれていて痛々しい。しかしここでは満足な治療を行えない。せめて止血だけでもと名前は自身の裾を短剣で裂き、太公望の額を押さえた。
 そうしていると、四不象が何かに気づいたようにハッと息を呑んだ。

「あれ御主人なんか弱いと思ったら、伏羲さんの姿はどうしたっスか?」

「あぁ、それは……」

「実はちょっと前自堕落桃ツアーに呆れた半身の王天君が家出したのだ。それで空も飛べんくなりおぬしを呼んだわけだ……」

 名前を遮り、太公望は経緯を話す。その声は思っていたよりも元気そうで、名前はホッと胸を撫で下ろした。
 家出したという王天君。その場に居合わせなかった名前には、実際どんなやり取りが二人の間で交わされたのかわからない。
 だが太公望が言うには「もうつきあいきれん」と言い残して去っていったらしい。「行かないで〜」と哀れっぽく追い縋る太公望を無視して。

「ええっ!?どどどとうするんスか雉鶏精相手に……!王天君さんのいない御主人なんて電池の切れたスマホっス!!」

「スープーよ、そこまで言わんでも……」

「ですが彼相手にいったいどう戦えば……」

 太公望への評価は置いておくとしても、現状不利なことに変わりはない。孔宣の能力、巻き戻し。それに対抗する手段が思いつかないのだから。

「うむ……確かに今のわしではこやつにやられてしまうぞ……」

 絶体絶命。
 三人は窮地に立たされていた。