豊水西岸2


 雉鶏精孔宣は様子を窺っているらしかった。
 けれど太公望が動かないのを見てとると、ニィッと口角を上げた。それは無慈悲で残酷な笑みだった。

「死ねッ★」

「御主人!!」

「……っ!!」

 勝ち目は薄い。孔宣の爪は名前の剣よりも鋭く、重たいものだった。ただの道士に過ぎない名前では到底歯が立たない。
 わかっていても、名前は太公望の前に立った。主君から授かり、宝貝として改良された剣を手に。一点の迷いも曇りもなく、名前は真っ直ぐに切っ先を向けた。

「ままままて!!そうだじゃあ喜媚だ!!ここにおるスープーは胡喜媚の旦那だぞ!!」

「えぇっ!?」

 しかし切羽詰まった太公望が慌てて言った言葉に、孔宣はピタリと動きを止めた。
 明らかに反応しているーー

「おぬしも雉鶏精のはしくれなら同類である胡喜媚を知っておろう!?つまりわしらは敵ではない!」

 それを好機とみた太公望は言い募った。狼狽える四不象の訴えを「事実であろうが」とはね除けて。
 確かに太公望の言う通り、以前太公望は胡喜媚と戦ったーー彼女と四不象の結婚をかけて。
 そして太公望は負けた。その後は太公望が封神されたり伏羲となったりして話はうやむやになっていたが、嘘は言っていない。

「胡……喜媚……?」

 この発言が吉と出るか凶と出るか。
 名前はごくりと唾を呑み、俯く孔宣を見守った。
 そしてーー

「なぁ〜んだ喜媚姉の旦那さんだったのッ★そうならそうと早くいうっしょ〜〜〜ッ★」

 軽快な語調。満面の笑顔。顔を上げた孔宣はそれまでとは打って変わって親しげな様子でそう言うのだった。

「はぁ……」

 それに思わず名前は脱力した。太公望の策が成功したのは喜ばしいが、心臓に悪い。
 一か八かの賭けだった。それは太公望も同じで、彼もまた「間一髪だったのう……」と深々と溜め息を吐いた。

「僕の名は孔宣ッ★時間を止めたり巻き戻したりする力がありッ★よろしく旦那サンッ★」

 殺気を纏わない孔宣は無邪気な少年といった風であった。その明るさは胡喜媚のものとよく似ていて、孔宣が彼女を姉と呼ぶのにも違和感はない。むしろ納得できる。
 そんな彼は、「確かによくよく見れば旦那さんは喜媚姉の理想のタイプっしょッ★」と語った。
 その言葉は名前には聞き覚えのあるもので。

「もしや蝉玉どのと嗜好が似て……?」

 蝉玉も四不象や土行孫の持つ丸い輪郭が好きなのだと言っていた。
 と、いうことは……?

「面倒なことにならずに済んでよかったのう……」

 太公望のポツリとした呟きに名前は頷かずにはいられなかった。
 蝉玉にも喜媚にも悪いが、二人とも各々別の道を選んでくれて助かった。

「それで早速だが親族として頼みがある!おぬしこの時間から撤退してはくれぬか?」

 ひとつ咳払いをし、太公望は真剣な顔つきで孔宣に訴えかけた。せっかく孔宣が友好的な態度をとってくれているのだ。できることなら話し合いで解決させたい。
 その切実さが伝わったーーわけではないのだろうが、孔宣は、

「そんなのおやすい御用っしょッ★」

 とあっさり受け入れた。
 代わりに、「殺劫は他の時間で行うことにしッ★」と言って。

「殺劫?」

 耳慣れぬ語に、三人は揃って首を傾げた。

「喜媚姉の旦那の付き人のくせにそんなこともしらんん〜?★」

 殺劫。それは孔宣の言葉をまとめると雉鶏精特有の衝動なのだとわかった。
 ひとり悠久の時をさすらう雉鶏精。その孤独、そしてそこから発生する感情。誰かに自身の存在を認めてもらいたい。誰かに構われたい。それはやがて戦いを、殺戮を求める心に変わるのだ、と。
 事実、こう話している間にも気が高ぶったのか。孔宣は「殺肢体ッ!★コロスッ★」と目を輝かせ始めた。

「落ち着け孔宣!!」

 そう太公望が慌て、名前が再度剣をとったところで。

「ーーてのが殺劫ッ★一億年に一回ぐらいくるんだよね〜ッ★」

 と、孔宣は舌を出して笑った。そこにはやはり悪意などなく。

「だからなるべく派手にドンパチやってる時空に降り立って戦いに参加させてもらうんだッ★ここ派手だったっしょッ★」

 そんなとんでもなく迷惑な発言をされても怒る気にすらなれなかった。彼の行為を非難することも。何せ種族も価値観も違うのだから。

「でもこの時間からは撤収しッ★」

 しかも彼はこちらの一方的な要求を呑んでくれた。
 彼が言うには「付き人たちと戦えたから殺劫も少しは収まったし」とのことだが。やはり快く引き受けてくれたことには変わりない。

「またくるね〜ッ★」

「いや来んでよいぞ〜!」

 巨大昆虫と戦うために三億年後まで行ってくると飛び立つ孔宣を見送り、名前はほっと胸を撫で下ろした。
 太公望は太公望で、「これで今度こそ外伝も終いだ!」と悪い顔で笑っている。
 そう、これで事件は解決。過去が改変されることも未来が変わってしまうのも防げたはずだった。
 ーーこの時までは。

「だっめよぉん{emj_ip_0834}そう簡単には終わらせないわぁん{emj_ip_0834}」

「!?」

「ん?★」

 聞き覚えのある声だった。ありすぎる、と言ってもいい。それほどまでに記憶へと鮮烈に刻まれた声。
 それは名前の人生さえも大きく変えた張本人ーー妲己のものだった。
 太公望も四不象も、そして孔宣すらも振り返った先。

「お久しぶりねん太公望ちゃん{emj_ip_0834}それと四不象ちゃん{emj_ip_0834}」

 相変わらず目に毒な格好をした女人が立っていた。その声も、容姿も、仕草さえ記憶のなかのものと遜色ない。
 けれど。

「よっ……楊ゼン!!」

「あ、瞬殺でバレた」

 太公望の叫びに妲己の像が揺らぐ。と思った矢先、彼女の姿は消え、そこには代わりに見目麗しい、涼やかな容貌の青年がいた。

「ヤバいっス過去の楊ゼンさんに見つかったっスよ!」

「うむ!逃げるぞ!!」

「し、しかし楊ゼンどの相手にそう上手く……」

「無理でもやるのだ!いやスープーならやれる!!」

 「頼むぞスープー!」と、彼に飛び乗ろうとした時だった。

「太公望師叔との出会いの時、本物の妲己が四不象を四不ちゃんと呼ぶことを僕は間違えた……。これは僕たちしか知りえない事実のはずですよね、太公望師叔」

「うむ」

 楊ゼンの静かな、しかしそれ故にこちらに焦りを感じさせる声音。そして、岩場から現れるもうひとりの太公望。しかもそれだけではない。

「ーーということは……」

「どっちも本物のお師匠さま!?」

「いったいどういうことか説明してもらうさ!」

 黄飛虎、武吉、そして天化が、いつの間にか三人の周りを取り囲んでいた。孔宣の存在に気を取られすぎていたのだ。
 太公望はもうダメだと青ざめているし、名前も動揺を隠せない。何しろ彼らは名前にとっても大切な、かけがえのない人たちだ。剣を向けることなどできるはずもなかった。
 それに。

「生きている武成王さんと……天化さんっス!当たり前の事っスけど、過去に来れば亡くなったヒトにも会えるっス!嬉しいっスねぇ!」

 彼らは生きていた。名前の目の前で、確かに。触れられる距離で、温もりのある身体で。
 ーー確かに、生きていた。
 その事実に、どうしたって胸は熱く高鳴り、喜びで視界が潤んでしまう。たとえこれが過去なのだとしても。そんな場合ではないと頭ではわかっているのに。

「さぁ白状せい偽わし!おぬしいったい何者だ!?」

「うぅぅ……」

「名前も!そのニセ師叔から離れるさ!!」

「い、いえこの方はニセ太公望さんなどではなく……」

 天化に手を引かれながらも、名前は隣で追い詰められる太公望を見やった。
 その行動に、言葉に、天化はスッと目を細める。

「……ニセ師叔に何かされたんさ?」

「え……?」

「じゃなきゃおかしいさ、名前がそんなに師叔と親しいなんて」

 ーー師叔を、太公望"さん"と呼ぶなんて。
 天化の指摘に、名前は自身の顔色が変わるのがわかった。それがどんなものであったかまでは自分からは見えない。ただ天化を傷つけたということだけはわかった。
 少しの驚きと、それが去った後の痛みを堪える表情。
 唇を噛む天化の目は、ひどく傷ついた色をしていた。

「天化どの……」

 名前はその顔に手を伸ばしかけ、しかし躊躇った末に目を伏せた。
 今の名前に、彼に触れる資格はない。この時代の、この時空の天化にかける言葉も。
 ただひとつ名前にできることがあるとするなら。

「……わたしは、あなたの知る"名前"ではありませんよ」

 名前は微笑み、そっと彼の手をほどいた。
 もしも今目の前にいる彼が"名前"を想ってくれているのなら。その手に触れるべきは未来の名前じゃない。彼が傷つく必要だってないのだ。
 名前の言葉に、天化は目を見張った。けれど、その手は容易く名前から離れていった。恐らく彼にも感じるところがあったのだろう。
 離れていく温もりが寂しくないと言えば嘘になる。けれど今の名前が選んだ道はそこにない。名前が共に歩むと決めたのはただひとりーー
 その唯一の人を助け出そうと口を開きかけ、名前は固まった。

「ズっこいぞッ★」

 二人の太公望に落ちる影。それは飛び立っていったはずの孔宣であった。