(元)公主、蓬莱島へ落とされる
脳を捩られる感覚。ワープゾーンに引き摺り込まれた名前を襲うのは、強烈な違和感だった。暗転する視界。けたたましい耳鳴り。
「……、」
ぼやける思考に頭を抱える名前を、申公豹はちらりと見下ろした。感情の見えぬ目で。腕の中の名前を見つめ、そして。
「……あなたはあちらにいなさい」
蓬莱島に降り立つ、その瞬間。青空の断片を捉えたところで、名前の世界はぐいと持ち上がる。
「え、」
驚きよりも前。反射的に洩れた声がその先を紡ぐよりも早く。名前の首根っこを掴んだ申公豹はーーその手を離した。
そうなればどうなるかなんて、ひとつしかない。
「待っ……、」
て、と。伸ばした手は宙を掻く。空気に溶ける声。遠ざかる影。ーー道化の姿。逆光になっていて、その顔は判然としない。どんな表情をしているのかも。
わからないままに、名前は落ちていく。空から地上へ。懐かしい世界へと還っていくその体を、
「……っ、と」
抱き留めたのは、名前の知らない温もりだった。
ぎりぎりセーフ、ーー溜め息のような呟きが落ちる。陽光を遮る体。その顔は息が混じりそうなほどに近く、紺碧の双眸に名前の意識は吸い込まれる。
「大丈夫か?」
真っ直ぐな声には覚えがあった。輝くばかりに透き通った笑顔にも。
「あなたは、黄家の……」
武成王黄飛虎。名前の父が頼りにしていた男。聞太師が心を預けていた唯一の人。
そんな彼の血を引く青年は、彼の朗らかな笑顔とそっくりに相好を崩した。
「そう、武成王の次男坊さ」
久しぶり、と。まるで旧友にでも会ったかのように彼は言い、名前の体を下ろした。
地を踏む感触。安定した足許に名前は人知れず安堵しーーそうしてから、肝心なことを伝えそびれていたと我に返る。
「ありがとう、助けてくれて……」
それから、遅くなってごめんなさい。
慌てて頭を下げる名前に、狼狽えたのは天化の方だ。
「いや、大したことじゃねえさ!だから公主がそんな謝ることなんて、」
彼は。
忠実なる家臣、その息子であった彼は、失われた名を呼んだ。ーー公主、と。
それはもう過去のものだった。殷の公主。その肩書きは、国が亡びた今なんの意味も持たない。ただの記録であり思い出でしか。
「……わたしはもう公主じゃないわ」
名前は困ったように微笑んだ。けれど不思議と嫌な感じはしなかった。殷を討つ、その決め手のなったはずの彼に名を呼ばれても。
それよりもずっと強く沸き上がったのは懐かしさだった。
かつての記憶。平和だった頃の思い出。
賢王と名高い父がいて、優しく聡明な母がいて。大好きな兄弟と憧れの太師とーーそれから、国を支える武成王が温かく見守ってくれるーーそんな在りし日の殷の姿だった。
「……悪い、」
「いいえ、あなたこそ謝ることなんてないわ。あなたたちに恨みなんてないし、……それこそ、感謝しかわたしにはないのだから」
名前の否定に。途端、天化は申し訳なさそうにする。しまった、失敗した。ありありと感情の浮かぶ顔に、名前は首を振って答える。
彼は自身のしたことでーー紂王を討ったことでーー名前が傷ついているのではと、そう思っているらしい。が、それはまったくの誤解だ。
名前の心には言った通りのものしかない。堕ちていく父を止めてくれたこと。この国を平らかにしてくれたこと。すべてすべて、名前が望み、けれど成し遂げられなかったことだ。
名前は無力だった。だから力ある彼らを羨む心こそあるがーー恨むなどというのはお門違いもいいとこ。第一恨まれるべきは妲己であり、紂王であり、ーーその娘の名前なのだから。
それ故に、名前は驚いていた。天化がなんの躊躇いもなく笑みかけてくれたことに。彼の母を、叔母を死に追いやったのは間違いなく紂王であるのにーーにも関わらず、彼は。
「そうか、」
どうしてか、微笑みをくれる。懐かしいものでも見たような目で。武成王によく似た面差しで。名前を見下ろし、よかったとでも言う風に目を細めたのだった。