武官、師弟愛に触れる


 崑崙山を襲う激しい揺れ。金鰲島の主砲から放たれた攻撃は凄まじい威力で崑崙山の上部を削り取った。

「なんてこと……」

 衝撃が収まったことで、被害の大きさが名前からも見てとれた。
 空を駆ける無数の魂魄。封神台へと向かうそれを、名前は呆然と見上げた。そうすることしかできなかった。失われた、命には。
 けれど、名前にだってまだできることはある。

「わたし、上に行ってみます。まだ負傷者が取り残されているかもしれませんし」

「あ、それなら僕も!」

 共に戦況を見守っていた蝉玉たちに告げると、やはりというか武吉が一番に声を上げた。頼もしいことだ。天然道士であり、様々な技能を持つ彼がいるなら名前としても心強い。
 手を挙げた武吉の横で、蝉玉もまた「それならあたしも行くわ」と笑った。

「さぁハニー!あたしたちの愛の共同作業よ!!」

「いやなんでだよ……」

 蝉玉に抱き上げられたままの土行孫は渋々といった風であった。が、彼の宝貝の力を考えると、その手を借りられるのは嬉しいことだ。
 ーー本当に、良き仲間に恵まれた。
 崑崙山は追い詰められていた。予測を上回る金鰲島の戦力。対して、準備もろくにできなかった崑崙は現状後手に回っている。不利としか言いようがなかった。
 それでも名前に不安はない。恐れも怯えも。それはきっと太公望たちがいるからだ。彼らの力を信じているから、名前もまた臆することなく行動することができた。



「はい、これでもう大丈夫ですよ」

「あぁ……ありがとう……」

 遠くから見上げた通り。崑崙山の上部は攻撃により抉られ、地形が大きく変化していた。
 崩れた岩場。削り取られた壁。落石事故の後のような現場では、人の呻き声と啜り泣きがあちらこちらから聞こえていた。
 そんななか、治療は仙道たちに任せ、名前は負傷者の救出および応急処置に専念していた。

「しかしこれほど被害が甚大だとは……」

「そうね……」

 一人助け終えても振り返ればまだ瓦礫に埋もれた人々がいる。目の届く範囲でこれだ。実際にはどれほどの者が傷つき、亡くなったろう。名も顔も名前にはわからないが、彼らが崑崙のーー太公望たちの仲間であったことに変わりはない。胸が痛むのはどうしようもないことだった。
 蝉玉もそれは同じようで、いつもの明るさがなりを潜めていた。
 二人は顔を曇らせたまま、しかし手は休めることなく救助に尽力した。
 けれどこれがまだ序章にすぎないことを、後に名前は思い知らされることとなる。



「そんな、楊ゼンどのが……」

 名前も幾度となく世話になってきた道士、楊ゼン。彼が単身金鰲島に潜入したのだと名前が知ったのは、崑崙山が金鰲島に乗り上げた後のことだった。
 金鰲島に張られた防御壁。それはあまりに頑丈で、万全な状態ではなかった崑崙山に破る術はなかった。だからすべては楊ゼンに一任された。金鰲の目を盗み、その島へと潜り込めた楊ゼンへと。
 楊ゼンは天才だ。そう、名前も常々感じていた。彼に不可能はないのではと、そう思ってしまうほどに。楊ゼンという人は、溢れる才と、それを正確に理解して適切に力を振るうことのできる仙道であった。
 それでも、彼だって万能ではない。金鰲島。敵の本拠地に単身で潜り込む、それだけでも困難なことであるのに、その上彼はそのなかで防御壁の解除までやってのけた。崑崙山へ攻撃が向かないよう、金鰲の仙道の意識を自分に向けさせた上で。
 そんな状況、いかな天才といえど無傷ではいられまい。敵の攻撃を受けるのだって一度や二度じゃ済まないだろう。
 敵の中枢で、負傷した体のままーー楊ゼンはひとり、戦っているのだ。
 名前は思わず胸を押さえた。楊ゼンの覚悟。勇気。そうしたものを感じ、名前の胸は痛んだ。けれどそれは悲しみのためではない。名前にあるのは彼への敬意と、その身を案じる心だけであった。
 そんな楊ゼンを救い出すために太公望も金鰲島へ潜入するという。金鰲島出身の蝉玉を案内役にして。

「蝉玉どの、どうかお気をつけて……」

「だいじょーぶよ!名前ったら心配性ねぇ」

 からからと笑う蝉玉に、しかし名前は半ば強引にお守りを渡した。といっても天化に贈ったような手製のものではない。それは名前が初陣の際に母から貰い受けた首飾りだった。
 龍と人の紋が刻まれた玉とそれらを繋ぐ瑪瑙珠、そして中央には大きな翡翠の石が配置された首飾り。それには魔を払い、身を守る力が籠められているのだという。
 そのお守りを蝉玉の首にかけてやると、さすがの彼女も呆れた風であった。

「あたしは平気だってのに……もう、」

「ですが相手はあの聞太師です。それに……」

「それに?」

「……いえ。ですが備えあれば憂いなしと言うでしょう?」

 続く言葉を名前は口にできなかった。
 名前には懸念があった。五事ーー戦において基本的な事柄である、道・天・地・将・法の五つのことだーーそのうちの少なくとも三つを聞仲に取られてしまった。後手に回っている現状、崑崙側が不利なことは明白である。
 しかも相手は金鰲島内部に楊ゼンがいることを知っている。知っているということは即ち、彼を助けるという行為すら見破られているということだ。
 「兵は詭道なり」と言うが、まさしく今がそれである。戦では相手を騙し、有利な状況を作るのが必定。今回で言えば餌は楊ゼンであり、太公望たちは罠にかけられようとしているのだろう。
 ーーそれでも行かねばならないのだ。

「……案ずることはない、すぐに戻る」

 軍師である太公望がそれを知らぬはずがない。
 名前と目が合った彼は、安心させるかのように殊更いつも通りに笑ってみせた。なんてことはないと。名前のそれは杞憂であると。そう彼は言外に語っていた。
 だから名前も肩の力を抜いて、微笑んだ。

「きっとですよ、約束ですからね」

「あぁ、無論だ」

「……本当なら、わたしも着いて行きたいところでしたけど」

 名前には恩義があった。返せないほどの借りが、楊ゼンに。
 楊ゼンには幾度となく助けられてきた。それは助言であったり助力であったりしたが、共通するのは彼がいなくては今の名前もなかったろうという点だった。
 しかしそれは叶わない。名前に力がないばかりに。
 今この瞬間、苦しんでいるかもしれない彼を助けることも、痛みを和らげることも、名前にはできなかった。
 それが悔しくて、名前は苦く笑う。

「……気にすることはない。適材適所、おぬしにはこちらで引き続き復興作業にあたってもらうぞ。なに、もしも聞仲が乗り込んできたのなら遠慮なく手伝わせるからな、覚悟しておれ」

「……はい」

 きっと聞仲が今崑崙山に踏み入ることはない。それでは地を失うことになるし、「人を致して人に致されず」をこれまで体現してきた彼が今さらそんな愚策をとることもないだろう。
 だから太公望の言葉は慰めであり、軍師としては極めて的確な判断だった。木石を転ずるが如し、である。
 そうして笑みを交わす二人に、「少しいいだろうか」と割って入ったのは意外なことに玉鼎真人だった。
 しかも彼は太公望ではなく名前に視線を向けている。
 何か失態でも犯しただろうかーー?
 頭では記憶を漁りながら、名前は「いかがいたしましたか?」と平静を装って訊ねた。背中は汗をかいているし、心臓は嫌な音を立てているし、内心は身構えていたけれど、そのすべてを押し隠して。
 しかし玉鼎真人の顔は名前の想像とは裏腹に柔らかなままで。

「名前くんは楊ゼンとは親しいのかい?」

 思いもよらぬことを名前に聞いてきた。
 これには名前も不意を突かれ、目を丸くする。が、玉鼎真人の眼差しに曇りがないことを見てとり、それが彼の本心であることを知りーー仄かな微笑が口許に浮かんだ。

「楊ゼンどのには良くしていただいております。それこそ言葉に言い尽くせないほどに……。楊ゼンどのはわたしにとっても大切なお方です。失いたくない、その心は同じです」

「……そうか、楊ゼンはそちらでもうまくやっていけているのか」

 そうか、と玉鼎真人は繰り返した。そうか、よかった、と。
 彼は心底安堵した様子であった。それを見て、名前は彼が楊ゼンの師だということを実感していた。
 楊ゼンの師が玉鼎真人であることは崑崙山に来た時に教えられていた。他でもない、楊ゼン自身から。「かっこいい人でしょう?」そう自慢げに話す楊ゼンの顔は珍しく、記憶に新しい。
 そしてまた、玉鼎真人から楊ゼンへの思いも目の当たりにした。弟子を思う師の心を感じ取ってしまった。それは温かく、穏やかで、父子のそれと似ていると名前は思った。

「これからも楊ゼンと仲良くしてやってくれると私も嬉しい」

「それはこちらこそです。楊ゼンどのと友になれるのなら……これほどの喜びは滅多にないでしょう」

「……ならばそれを伝えてやってほしい。帰ってきた、楊ゼンに」

 玉鼎真人の眼は深い色をしていた。聡明な、そして深遠なる瞳。その内心を名前が知ることはついぞなかった。
 けれど名前は約束した。玉鼎真人に誓いを立てた。他愛のない、約束を。

「何があろうと伝えましょう、必ず」

 その時玉鼎真人が見せた微笑。それは口角を上げただけのもので、しかし思わずといった風に緩んでしまったのだけは名前にもわかった。
 その微笑みはあまりに優しく。深い愛情を滲ませたもので。
 後々まで名前の胸に焼きつくこととなった。