武官、運命について考える
太公望も蝉玉も四不象も無事に崑崙山に帰還した。
けれどそこに玉鼎真人の姿はない。彼だけが帰ってこなかった。楊ゼンすらも、気絶しているとはいえ四不象に背負われているというのに。
「玉鼎は死んだ」
そう言った太公望の声は殊更に静かなもので。だからこそ抑え込まれた悲しみが伝わり、名前の胸は痛んだ。
玉鼎真人。彼と交わした言葉は少ない。それこそ片手で数えられるほどに。
しかしその僅かな時間でも彼の人となりは伝わってきた。弟子思いの寡黙な仙人。彼の愛情の深さを名前は知ってしまった。
だから察することができた。きっと玉鼎真人は楊ゼンを救うために命をかけたのだろうと。
故に悲しみばかりが広がった。
「……ご立派な最期だったのですね」
「……あぁ、そうだな」
名前は心のなかで敬意を表した。封神台へと飛んでいった魂魄へと。
ーー玉鼎真人、必ずや約束は果たしましょう。
そう改めて誓い、名前は太公望に向き直った。
「ところで、楊ゼンどのの容態は……」
気を失っていた彼は早々に医務室へと運び込まれた。彼らを出迎えようといの一番に駆けつけた名前であったが、それでも四不象の背に乗せられ運ばれていく楊ゼンの顔を見ることは叶わなかった。辛うじて、力なく垂れた腕が見られただけである。
だから今後の作戦を立てるために会議室へと向かいながらも、名前の心は晴れなかった。楊ゼンの容態が気にかかってしようがなかった。帰ってきた蝉玉の顔が暗いままなのもそれに拍車をかけていた。
「……今はなんとも」
嫌な予感ほどよく当たるものだ。
太公望は歯切れ悪く答え、しかし現状わかっていることは詳らかに語ってくれた。楊ゼンが未だ目を覚まさぬこと。それが外傷によるものではないこと。恐らくは敵のーー王天君の宝貝によるものであろうこと。
「では王天君を倒さなければ……」
「あぁ……」
楊ゼンは治らないかもしれない。大元を叩かなければ。
名前は口端を噛んだ。
王天君。金鰲十天君のひとりにして、玉鼎真人を破った男。それは話に聞くだけで緊張を煽った。聞仲だけでなく、その下にはまだまだ危険な仙道が控えているのだ。
この戦いで、どれほどの者が命を落とすのだろうかーー?
戦争に犠牲はつきものだ。名前だって初陣以来数えるのも嫌になるほど仲間を見送ってきた。そのなかには親しい友だっていた。だから戦争ほど利益も損失も大きいものはないと理解している。胸の痛みを堪えるしかないことだって。
わかっていた、けれど。
「あれ、どうしたの二人とも暗い顔して……お腹でも痛むの?」
重苦しい沈黙。二人の間に落ちたそれを割いたのは穏やかな声だった。
「普賢さま、」
普賢真人ーー柔らかな面差しを持った仙人は、戦争のただ中だというのに微笑を浮かべて立っていた。
その姿に知らず力が抜けていく。名前も、太公望も。
「何を言っているのだおぬしは」
「だって望ちゃんよくお腹壊してたじゃない。ほら、食い意地が張ってるから……」
「よ、余計なことを言うでないわ!」
太公望の抗議などなんのその。柳に風といった様子で普賢真人は微笑むばかりである。
それが余計に二人の気兼ねない関係を感じさせ、名前も思わず笑みをこぼした。
「お二人は本当に仲がよろしいのですね」
「まぁ長い付き合いだからね」
普賢真人の言葉を太公望は否定しなかった。「腐れ縁だ」とだけ言って、ひょいと肩を竦めてみせた。
太公望といえば策士で、振り回されるのは周りであるのが常だった。少なくとも、名前が知る限りでは。
けれど普賢真人といる時の太公望は名前の知らない顔をしていた。年相応の、と言うのも変な話だが、少年らしい表情を太公望は浮かべていた。老獪さはなりを潜め、道士でも軍師でもない顔を見せていた。
たぶんこれが太公望という人の本質なのだろう。
彼という人間の始まりに、名前は初めて触れていた。日頃の彼が偽物というわけではないだろうが、恐らく彼の根源はひどく純粋で穢れないものなのだ。
ーーそれはきっと普賢真人も同じで。
「だから望ちゃんのことは本人以上に知ってるかもね。それこそ望ちゃんが気づいてないことだって……」
「な、なんだそれは……。おぬしが言うと冗談に聞こえぬぞ」
「冗談なんて言うわけないじゃない。でも教えるのはやめておくよ、望ちゃんだって面白い方がいいものね」
「本当に何を言っておるのだ……」
「ふふっ……」
名前が口許を押さえると、普賢真人はふっと目を細めた。よかった、と。そう言って。
しかし首を傾げた二人に普賢真人は答えをもたらさなかった。微笑でもって受け流し、本心を明らかにしようとはしなかった。
代わりに、名前の肩に手を置いた。悪戯っぽい光をその瞳に宿して。
「僕はね、望ちゃんが子供の頃から知ってるんだ。だから、それこそ今では思いもよらないことだって覚えてるよ。たとえばね……、」
普賢真人は名前の耳許に唇を寄せた。
そうされてもまったく不快感がないのは彼の持つ独特な空気のせいだろうか。彼の体からは、草原の爽やかさと川の清涼さに似た香りが仄かに立ち上っていた。
それがとても好ましいと名前は思った。彼と出会ってそう時間は経っていないはずなのに、まるで知己と相対しているかのような感覚であった。
それもまた、太公望と共通するもので。
「コラ普賢!おかしなことを名前に吹き込むでない!!」
「あら、おかしなことなどではありませんよ。それにわたし、続きが聞きたいわ。とても興味深いお話なんですもの」
「そうだよ望ちゃん、人の楽しみを奪うなんてよくないことだと思わない?」
「わしは楽しくないぞ!というかいつの間にそんなに仲良くなっておるのだおぬしらは!!結託しおって!」
笑みを交わす二人に、太公望は拗ねたように背を向けた。声をかけても彼は答えない。すっかりヘソを曲げてしまったらしい。
けれど本当に怒っているわけではないと名前は知っている。そして普賢真人も。
名前は太公望の後を歩きながら、普賢真人にそっと囁いた。
「先程の言葉、そのままお返しいたします」
「ん?」
「『よかった』とあなたは言ったでしょう?わたしもそう思います。あなたが声をかけてくれて……太公望どのに平穏を与えてくれて、本当によかった」
きっと名前ではできなかった。太公望の気持ちを切り替える手伝いも、平静を取り戻させることも。
普賢真人がいたからーー彼がいつも通りに接してくれたから、太公望も名前も悲しみに囚われずに済んだ。前だけ見ることができた。
だから「ありがとう」と名前は言った。ありがとう。心から、そう思う。
しかし普賢真人は緩やかに首を振った。
「僕だけじゃないよ。確かに僕も望ちゃんの手助けができたらって思ってるけど……」
でも、と彼は一度言葉を切った。そうして、名前を見つめた。じっと、真っ直ぐに。
「きっと君は望ちゃんの力になる。これから先の戦いでも、きっとね」
「そう……でしょうか」
普賢真人の言葉はすぐには受け入れられなかった。何せ名前には自覚がある。自分の無力さを理解している。だから力になれると言われても素直に頷くことができなかった。そんな自信はどこにもなかった。
けれど普賢真人は「そうだよ」と一切の揺らぎもなく肯定した。必要なのは力などではないと。そう言い添えて。
「名前、君が望ちゃんと出会ったのも大きな流れのなかのひとつなのかもしれない」
運命、もしくは誰かの作為によって定められた、太公望との出会い。それでも、と普賢真人は続ける。
「それでも、君には選んでほしい。自分の意思で、自分だけの道を」
「普賢さま……」
「……僕はそうして、望ちゃんを支える道をーーこの戦いに身を投じる道を選んだから」
普賢真人は凡そ戦いというものとは縁遠い容貌をしていた。身に纏う清浄な空気も穏やかな瞳も。血や土埃などは、彼には到底似つかわしくなかった。
それでも彼は選んだのだと言う。今この瞬間を。太公望の隣で戦う道を。
それはとても眩しくーー普賢真人の決意に、名前もまた応えた。真っ直ぐ、彼の目を見つめ返すことで。
「……この気持ちも定めによるものなのかもしれません。わたしには判断しようもない。ですが、」
名前は想った。太公望のことを。それから四不象や楊ゼン、蝉玉ら仙道のことを。彼らと共に歩んだ日々を。
思い返してしまえば、答えなどひとつしかなかった。
「ーーわたしは、守りたい。大切な人を、大切な人が愛するものを。守ることができたなら、それが誰かに操られた結果だとしても……」
構わないと、名前は思う。
何が運命なのか。どこまでが定められたことなのか。そんなことは名前にはわからないし、答えすらあるのかも疑わしい。
だから名前は『今』を選んだ。今、この時。この瞬間に名前が抱いた想い。それだけは真実であると。それがどこに端を発しようと、結末がどこにあろうと。
ーー彼らと過ごした日々は、そこで積み重ねた想いは、確かに名前の中にあるのだから。
「やっぱり僕たちは似ているね」
名前の答えに、普賢真人はそう呟いた。
その真意を名前は知らない。彼に答えるつもりはなさそうだったし、名前もそれ以上を聞くことはしなかった。
「おぉい!おぬしら何をちんたらしておる!!」
「……あぁ、今行くよ!」
二人は顔を見合せ、そうして笑いながら呼び声の元へ向かった。