降谷零と心中する
本誌のネタバレ含みます。
1012話の後、こんなことになっていたらのIF
バーボンの思惑は読まれていた。赤井秀一に、江戸川コナンにーー工藤夫妻に。
最早、名前たちに選択の自由はなかった。
組織がバーボンに求めたものは工藤新一の情報だった。そのために工藤家に潜入したが、まさか赤井秀一が工藤夫妻まで巻き込むとは思っていなかった。想定外、こちらの読みが甘かったということだ。
工藤夫妻が息子の情報を渡すとは思えない。そして彼ら相手に名前は力に訴えることができなかった。何せ彼らは一般人、罪なき日本の民だ。ーー降谷零が、守るべき人のひとりだ。
赤井秀一は条件を出した。工藤新一の情報は渡せない。代わりに、自分が掴んでいる情報はすべて降谷零に流すと。
ーーけれど、それは。
「……あなた、零に死ねって言うの」
それは、降谷零に、安室透に、バーボンに死ねと言っているのと同義だった。
名前は斜め向かいに座る赤井秀一を睨めつけた。仮面も外し、優雅にお茶を飲む男を。降谷零の邪魔ばかりする男を。
憎しみを込めて睨み据えた。
「……そうだ。君たちには死んでもらいたい」
しかし赤井秀一には通用しなかった。男はまったくの平静で、常通りの涼しげな顔で、断言した。
それは、名前の怒りを煽るのに十分だった。
「……赤井ッ!」
「……待て、名前」
だが殴りかかろうとした名前を零は止めた。誰よりも赤井秀一を憎んでいるであろう彼が。
ーー感情を圧し殺した顔で、名前の腕を掴んでいた。
「零……」
「…………」
彼は何も言わなかった。そう、何も。赤井秀一が自分勝手な要望を並び立てている間も、ずっと。
だから名前は言葉を失った。彼のために何もできないのだと痛感した。自分の無力さが痛いほどわかった。
「……現時点で僕に選択権はない。それがこの国を守ることに繋がるのなら……読み違えた僕にはそれを呑むしかないだろう」
降谷零は淡々と、冷静に言葉を紡いだ。そこに感情はなく、機械が読み上げているかのようだった。
けれど名前には伝わった。彼がどれほどの屈辱を感じているか。これが苦渋の決断であるということは、彼の膝の上で握り締められた両手を見れば明白であった。
バーボンに求められていたのは工藤新一の情報だった。そしてそれが得られないのならば、組織は簡単にバーボンを見放すだろう。そうなれば組織が関知している安室透もこの世にいられなくなる。
そしてバーボンが切り捨てられるということは、公安警察と組織の繋がりがなくなるということでもありーー降谷零への信頼が失墜するということでもある。
そうなった時、警察は降谷零をどうするのだろうか。組織の、国の暗部を知ってしまった彼を。
それでも要求を呑むしかなかった。組織との繋がりを保つためには。組織の情報を得るためには、赤井秀一の靴を舐めることしか。
名前には他にどうすればいいのか思いつきもしなかった。
「ごめんね、名前」
燃え盛る我が家を眺め、零はぽつりと呟いた。
安室透の痕跡は残してはおけない。すべてを炎に飲み込ませ、名前はぼうとその様子を見つめていた。この国に来て、安室透の親類となって、そうして生きてきた思い出が消えていくのを。大切な記憶も想いもなかったことにされていくのを。
ただ呆然と眺める名前に、零は泣きそうな顔で謝った。
「どうしてあなたが謝るの。悪いのはわたしたち、どっちもよ」
「……うん、でも君を巻き込んだのは事実だ。これでもう、君はどこにもいない。組織にもこの国にも」
本当のゼロにしてしまった、と零は目を伏せた。そう言う彼だって何もかもをなくしたのに。
「……平気よ、私、あなたがいれば。別にこの世界のどこにもいなくたって構わないわ」
名前は本気だった。本気で、彼さえいればいいと思っていた。それさえ守れるならば、名前は生きていけると思った。
けれどその言葉にも零は悲しそうにするばかりだった。
ーーこの時から、歯車は狂いだしていたのだろう。
滅びの道へと運命は定められてしてしまったのだ。
ーーだから。
「ーーゼロっ!」
それからそう時を経たずして、組織への掃討作戦は決行された。幹部はもれなく拘束、もしくは射殺され、現場は終息へと向かっていた。
だから、FBIから言い渡された任を終え、名前が駆けつけた時にはもうほとんど決着がついていた。
降谷零は瓦礫の中にいた。炎に巻かれる室内に彼は倒れていた。
辺りは凄惨を極めていた。壁は崩れ、柱は揺らぎ、血と炎で赤々と燃えている視界。それでも名前は中へと飛び込んだ。飛び込み、倒れた彼の元へと駆け寄った。
「名前……?」
「ゼロ、ゼロ、しっかりして……!」
零の手を掴む。煤で黒く汚れた手を。力なくすり抜けてしまう手を。名前は必死で掴んだ。
降谷零は忠実に任務を全うした。幹部たちを誘きだし、一網打尽にするという計画を。爆弾を用い、逃げ場をなくす作戦を。彼は愛する国のため、なんの躊躇いもなく実行してみせた。
ーーその作戦に、彼が脱出するための術が描かれていなくとも。
「ダメだ、名前……早くここから逃げないと……」
降谷零の目は霞んでいた。はっきりと交わらない視線がそれを物語っていた。彼の美しい蒼色はもうどこにもなかった。
なのに彼は名前の身を案じた。一番にそれを口にした。
その事実に、どうしようもなく名前は泣きたくなった。
「逃げるならあなたも一緒よ」
「……僕は行けないよ」
零は困ったように眉を下げた。そして言い聞かせるようにして言葉を続けた。
「僕はもうこの世のどこにもいない……。でも、名前、君だけなら……今後のことはFBIに頼んである」
癪だけど、とこんな時なのに零はぎこちなく口角を上げた。
「行くんだ、名前。僕のことなんて、忘れて……幸せになって」
ーーこんな時、だからこそ、彼は微笑んだ。名前を前に進ませるために。名前を幸せにするために。
彼はぼろぼろの体で名前に微笑を寄越したのだ。
「……そんなところに、私の幸せはない」
「名前……?」
彼が真に名前を想ってくれていることはわかっている。伝わっている。理解している。
それでも、名前に孤独に死んでいく手を離すことなどできそうもなかった。
「私の幸せはここにしかない。その先にある幸せなんて、私はいらない」
炎がはぜる。柱が倒れる。火の手は蛇のように床を這い、世界を赤く染めていった。
そんななかでも名前は手を離さなかった。倒れた彼の側で膝をつき、その頬に指を滑らせた。
「私、幸せよ。最期まであなたといれるなんて。……その方が、あなたのいない未来よりもずっと幸せだわ」
彼は微かに息を呑んだ。その顔は憂いに満ち、瞳は悲しみに彩られていた。
「……仕方ないなぁ」
けれど最後にはふっと表情を緩めた。諦めに息を吐き、笑いながら名前を見上げた。
「ごめん、名前……結局僕は何もなせなかった。君を普通の女の子にしてやることすら」
「何を言ってるの」
ごう、と炎が唸りを上げる。髪が風に焼かれ、名前の視界もぼんやりとしてくる。
それでも名前の心はひどく穏やかだった。穏やかに微笑みながら、倒れ伏す彼を抱き締めた。
「あなたは立派にこの国を守ったじゃない。……誇っていいわ、きっとみんな……あなたの友だって認めてくれる」
「そう、かな……」
そうだったらいいな、と彼は遠くに目を馳せた。
しかしすぐに視線を戻し、「でもやっぱり、」と頼りない指先で名前の左手を、その薬指を辿った。
「名前に、名字もあげたかったな……」
「零……」
いつの間にか名前の頬には熱いものが伝っていた。そして零の目尻にも。涙は伝い流れ、零の唇に落ちた。
それを追って、名前も口づけを落とす。
それはしょっぱく、血の滲むものであったけれど。
「なら貰っていくわ、あなたの大切なもの」
名前は幸せだった。これ以上にないほど穏やかな気持ちで迫る炎を迎えた。
名前が最期に見たのは、零の温かな微笑みだった。