携帯が震える。深い青。それは名前のものだ。
だが俺は躊躇いなくそれを拾い上げる。ライトのついた画面。浮かぶコメント。送り主はどうもクラスメートらしい。
「花見だって」
メッセージを読み上げると、食器を仕舞いながら名前は思い出したように声を上げた。あぁ、そういえば。それだけで、勝手に携帯をいじったことへの非難はない。当然だ、ずっとそうしてきたのだから。
ほの暗い充足感。そんなもの知らない名前は、俺に笑顔を向ける。
「隣の席の子が誘ってくれたの。花見、行ったことないって言ったら、ぜひって」
透の国は優しい人ばかりねーー。名前は、鈍いようで鋭い。
そう、ここは俺の国。警察としての俺が守らなければいけない人々だ。でもね、名前。君ももう俺にとっては守るべき存在なんだーーと伝えたところで今の名前は困るだけだろう。それを歯がゆいと思ってしまう俺は存外堪え性がないらしい。
「どんな人たちが来るんだい?」
片付けを終えソファに戻ってきた名前に訊ねる。彼女は素直に携帯を操作して、何人かの名前を挙げた。その中には男の名前もある。
「ちょっと見せて」頼めば名前はあっさり許す。少しも嫌がる素振りを見せない。
彼女の携帯を動かし、クラスメートとの会話履歴を遡る。そうすれば、メンバーの男が名前に好意を持っていて、その他の者たちがそれを応援しているという構図が見えてくる。
「……なるほどね」
それだけ確認して、俺は携帯を返した。なるほど。でもこうなるのも当たり前か。そう思ってしまうあたり、俺もだいぶ頭がやられている。
名前を想う男がいる。ーーそれがどうした?
確かに名前は子どもだ。情緒の発達に乏しい。注ぐ愛情を学んでも、そこから発生する邪なものをいまだ理解していない。美しい愛情しか彼女はまだ知らない。
それでも俺には自信があった。未熟な感情でも待っていればいつかは育つ。たとえ今の気持ちが幼いものであったとしても、名前の真っ直ぐな目を、言葉を信じているから。いつかは彼女も俺に追いついてくれると分かっているから。だから他に男が寄ってきたってなんの問題もない。おまけに相手はただの高校生だ。大人げないところは見せられない。
そこまで考えて、はたと気づいた。気づいたというより思い出した。それも、嫌なことを。
最初に思い浮かべたのは銀髪の男。奴は名前を気に入っていた。そこに愛はなくとも、それなりの情があるように思えた。もし、あの男が。
それだけじゃない。赤井秀一。奴も名前を評価していた。チームを組んでいた時、彼女に背中を預けていたのを覚えてる。情なんて知らないといった顔だったが、もしも今の名前を自由にできるならきっと手元に置いたろう。
……考えただけで、吐き気がする。
「でもせっかく誘ってくれたのを断るって結構心苦しいわ」
名前はひとりごちて携帯の画面を落とした。もう興味は失ったとばかりにお茶を飲んでいる。
俺は驚いた。「行かないって、」さっき、あんなに楽しそうにしていたのに。
「だって、透の約束と被っているんだもの」
なんてことないように名前は言った。名前の目はよく磨かれた宝石みたいに輝いていた。
だからまぁ、思わず彼女を抱き寄せてしまったのもやむを得ないことだろう。
「ねぇ、名前」
調子に乗ってしまうのも、名前のせいだ。
「あの、透、」
ベッドの上で名前は狼狽えた。ここまで来るのは簡単に了承したくせ、いざ着くと座り込んで口ごもる。
「あの、私、寝相が悪いかも。それにいびきとか、歯ぎしりとか、えっと、大丈夫かしら」
心配するのはそこか。
いや、名前の境遇を考えればそういう思考に至らないのも自然なのかもしれない。
俺が「一緒に寝よう」と誘って名前が一番に気にしたのが、俺の迷惑にならないかといったことであった。そこに自分の身への心配は欠片もない。まぁ名前を襲える一般人なんていやしないが。
「大丈夫だから、ほら」
手を引けば、彼女は従順に従う。「あったかい」安心したように緩む頬。純粋な眼。俺たちは寄り添って横になった。
「……あぁ、本当に」
俺も不思議と穏やかな気持ちになる。彼女の柔らかな体温は心を落ち着かせてくれた。久しぶりに、いい夢が見られそうだ。
「……今度、桜を見に行こう」
ふたりで。
微睡む名前に囁く。彼女はふわふわとした表情で、しかし確かに俺の手を握り返してくれた。