豊水西岸5


 転機は存外早くにやってきた。

「待て待て待てぇ〜い趙公明!!」

 孔宣と金蛟剪が戦い始めてから、そう間を置かずに響いた朗々たる声。名前にとっても聞き覚えのある、懐かしい音。

「崑崙十二仙……!」

「コーチ!」

 滑翔する十二個の大きな影。巨鳥を前に静止した群れの正体は崑崙山の黄巾力士であり、搭乗しているのもまた十二仙と呼ばれる仙人たちであった。
 道徳真君や普賢真人、玉鼎真人といった、名前にとっては思い出深いーー未来においては喪われた人々の姿。この時間において、"名前"はまだ彼らと出会っていない。だから彼らも名前のことを知らないし、視線が交わることもない。
 それでも胸を駆け抜けるのは途方もない喜びと、彼らがいるのなら大丈夫だという安堵であった。

「ちょうどいいとこに来たさコーチ!そいつがありゃこっちからも攻められるさ!!」

 天化は黄巾力士に目を輝かせ、名前を見た。
 差し出された手。共に行こうと、戦おうと、彼の目は雄弁に語っている。

「……はいっ!」

 名前の答えはひとつしかなかった。
 だってそれは名前の望みでもあったのだからーー。

「おお、天化、傷は大丈夫なのか?」

 道徳真君は己の黄巾力士に飛び乗った名前たち三人を快く迎え入れた。
 しかし同時に案じるのは弟子のことだ。血の滲む包帯に彼は顔を曇らせた。また無茶をして、と言いたいのだろう。

「んなこと言ってらんねーさ!」

「しかしなぁ……」

 然り気無く天化を庇う黄飛虎も道徳真君と同じで息子の怪我の具合を気にしていた。
 だが天化の言う通り、そんなことを言っている余裕もない。彼を前線から引かせようにも金蛟剪の龍と巨大な鳥がいてはその隙すら作れそうになかった。

「……早いとこ片付けちゃいましょう!ね、天化どの!」

 つまり道はひとつ。この戦いを早々に終息させ、天化を休ませる。彼にはこんなところで立ち止まってほしくない。彼にも、黄飛虎にも、道徳真君にも。

「……あぁ!」

 名前の言葉に、天化は口角を上げた。莫邪の宝剣を振るいながらも、ひどく無邪気に。目を細め、笑った。
 つられて、名前の顔にも笑顔が広がる。彼が、彼らがいれば、何も怖くなかった。何だってできる気がした。楽しいと、心の底から思った。

「……だな!」

「何、我ら十二仙が来たからには奴らの好きにはさせないさ!」

 笑み交わす二人を見下ろし、黄飛虎と道徳真君も深く頷いた。
 と、その時。

「いやああああっ!!」

 天高く響き渡る野太い叫び声。龍の爪を弾きながら、名前は思わず視線を走らせた。声は巨鳥の方から聞こえたようだがーー

「〜〜〜〜〜〜ッ!!」

「うわーーーーーーッ!!」

 遅れて巻き起こる突風。それは巨鳥の翼によるもので。

「っくそ!なんなんさ!!」

「突然暴れだしたように見えますが……っ」

「なんだなんだ、仲間割れか!?」

 それによって風で持っていかれそうになる体を必死で抑えながら、名前たちは飛んでくる石や岩に対応しなければならなくなった。
 風に舞う無数の礫。薄目で様子を伺うと、暴れまわる巨鳥とそれにより崩落する山の姿が視界に入ってきた。付近に人家がないとはいえ、交通網への被害は甚大である。西岐の民だった身としては、今後のことを考えるだけで頭が痛い。

「うおっ!?」

 しかもこの巨鳥、火を噴くのである。足許を掠める熱風にさしもの武成王も青ざめた。
 混沌とする戦場。敵も味方もお構い無しで暴れるのは巨鳥だけではなく。

「うわぁいッ★殺劫し放題だ〜ッ★」

 孔宣は嬉々として黄巾力士に立ち向かったかと思えば、普賢真人の発生させた斥力によって弾かれていた。にも関わらず、やはり彼は笑っていた。金蛟剪、黄巾力士、そしてナタクといった強敵たちに挑み続け、楽しそうに空を飛び回っていた。
 ーーそして数時間後。

「そういやあの鳥人間はどこ行ったさ?」

 双方疲れを見せつつも均衡は崩せず、戦いはなおも続いていた。 
 そんななか、ふと天化が呟いた。鳥人間ーー孔宣の姿が見えない、と。
 その言葉に、名前はハッと我に返る。すっかり目の前の戦いに夢中になっていた。元凶である孔宣の存在を忘れるほどに。

「あいつならあっちの太公望どのと話してるみたいだぞ?」

 黄飛虎によって示された方へと名前も目を向ける。
 太公望と孔宣。地上にいる二人の周りは不思議と静まりかえっていた。それはこの時空において彼らが異質であることを示すかのようで。

「ーー名前っ!」

 視線に気づいたわけではないだろうが、太公望もまた名前を見た。交わる視線。結ばれたそれだけで、名前は彼の言わんとすることがわかった。
 どれほど盛況な祭にだって終わりはある。例外はないのだ、どんなことにも。

「名前、」

 別れを告げようと、目を上げた時だった。
 名前よりも先に、天化が口を開いた。彼は静かに名前の名前を呼んだ。彼にとっては他人でしかない名前の名を。
 静かに、けれどどこか柔らかく、彼は名前を呼んだ。

「あーたは"名前"じゃねー……らしいけど、俺っちはあーたに会えてよかったって思う」

「天化どの、」

「ありがとな、名前。あんたのお陰でやんなきゃなんねぇことがはっきりしたさ」

 天化は笑った。くしゃりと相好を崩して。太陽のように、いや、それよりも眩しく彼は笑った。

「……わたしも、感謝しております。あなたと共に戦えた、それはわたしにとって尊い思い出です。……本当に、ありがとう」

 声が揺らぐ。視界が潤む。
 それでも名前は視線を逸らさなかった。最後まで天化を見つめ続けた。もう二度と会うことはないであろう彼を。生きている彼の姿を。共に戦った同朋の顔を。
 決して忘れることがないよう、目に焼き付けた。
 天化は最後に右手を差し出した。名前も応え、その手を握り返す。

「さよなら、天化どの」

「じゃあな、名前」

 何の因果か、二人して最後の時ーー永訣の日に言うことのできなかった別れの言葉を口にした。
 しかしそれ以上の言葉は必要なかった。悲しむことも、惜しむことも。
 二人は笑い合い、そして身を翻した。天化は戦いへと。名前は太公望の元へと。
 振り返ることなく、前へ向かっていった。