未来へ
未来に戻った名前たちを待ち受けていたのは、荒れ果てた大地であった。
「そんな……」
「未来が滅亡したママっス〜〜〜……!」
「んなアホな……!」
確かに神農は言っていた。未来が変わってしまったのは雉鶏精があの時代で戦いを始めてしまったせいであると。それを防ぐため、彼を時間のはざまに追い出せと。
そのために名前たちは戦った。お陰で孔宣の殺劫は解消されたし、彼によってあの混沌もなかったことになった。過去の改変が行われていないのなら、未来が変わることだってないはずなのだが……。
「お帰り、三人とも」
「神農!!」
膝をつく三人の前に、神農はスッと音もなく降り立った。
呑気なことを言う彼に、太公望は慌てて「わしらは過去を修正したはずだぞ!!」と噛みついた。彼の言う通り行動したというのに、また無駄骨になったというのか、と。
そんな太公望に、神農はにこりと笑った。
「うん、ご苦労だったね」
神農の反応は思い通り事が運んだという満足げなもので。荒野には似つかわしくない表情に首を傾げると。
「わっ……!」
一陣の風が吹き抜けた。
それは最果てから流れてきたもので、薄紅の花を纏っていた。
同時に、景色も一変した。
荒野に清涼な水が流れ落ち、やがて広がり大河を成す。緑は沸き上がり、大地を生い茂る。土地は隆起し様々な顔を覗かせる。空には蒼が染み渡り、薄雲が棚引いている。
そして風には仄かに甘い香りが滲んでいた。
「桃の花咲き誇る美しい未来が戻ってきたよ」
神農は手を広げ立っていた。その笑顔は彼が真にこの星を愛していることを意味しているかのようだった。そしてそれはきっと間違いではないのだろう。
「…………、」
太公望は最初呆気にとられた様子であった。何せ痩せ細った大地とは比べ物にならない光景が目の前に広がっているのだから。
しかしこれが現実であると実感すると、彼は深々と溜め息を吐いた。疲労と安堵。珍しいものを露にしてから、彼はひとりごちた。
「これでやっと全てが終わったのう……」
言葉とは裏腹に、彼の声音はどこか寂しげでもあった。
その眼差しに、言葉に、名前は胸を締め付けられる。受け入れたつもりだった。彼の選択が最善であると。大いなる力を持つ彼がこの世に留まり続けてはいけないと。納得した、つもりだった。
けれど。
「太公望さん……、」
「御主人!本当にこの世界と融合してしまうんスか!?」
身を乗り出したのは四不象だった。
彼もまた太公望の選択に納得した風であった。少なくとも、以前は。
それでもやはり別れを目の前にすると心持ちも違うのだろう。
四不象だって別離を望んではいないのだ。なのに太公望は無情にも頷いてみせた。
「もはやこの世界にわしは必要ない」
そう言った後で、彼は名前を見た。
その目に映る姿を見て、初めて名前は自分がどんな顔をしているのかを知った。
それは今にも泣き出してしまいそうな顔だった。迷い子のような幼いそれは、雄弁に語っていた。寂しいと。離れがたいと。ーー彼を、いとおしいと。
そう思っているのだと、瞳の中の名前は訴えていた。
「……名前、」
太公望は手を伸ばしかけた。
二人の間に隔てるものは何一つとしてない。そう、物理的なものは、なにも。
けれど彼は寸でのところで立ち止まった。ほんの数センチ。温もりが掠めるほどの近さで、彼は躊躇った。躊躇い、結局彼が名前の頬に触れることはなかった。
代わりに彼は名前の頭を撫でた。
「なに、悲しむことはないぞ。わしはこれからもみなを見て……」
太公望は芝居がかった語調でそう言った。それは一種の仮面であり、彼の本心は奥深くへと仕舞い込まれた。
けれど、そんな台詞を神農はあっさりと遮った。「え、いいの?」と。
「われわれ最初の人が残したスーパー宝貝はまだまだあるよ?祝融の地球破壊宝貝とか、燧人のビッグバン発生宝貝とか」
「な、なんだと!?」
寝耳に水。それは太公望すらも知らない事実だったらしい。
彼は声を上げ、いそいそと四不象の背に跨がった。
「だからなぜ先に言わん!!やつらはどこに?」
「僕と同じでどこかのパワースポットにいるんじゃない?」
神農はさらりと言ってのけるが、世界にいくつパワースポットがあるかわかっているのだろうか。
太公望は「こうしてはおれん」とすぐに旅立つ姿勢だった。
「名前も早く、」
「……いえ、少し待っていただけますか?」
「名前?」
怪訝そうな太公望には答えず、名前は神農に向き直った。そして太公望たちには聞こえぬよう、彼の耳に口を寄せた。
「……ありがとうございます、神農さま」
「ん?なんのことかな?」
「……あなたに、その気はなかったのでしょうけど」
名前は苦笑した。
もう間違えないと決めたはずだった。けれど現実とは難しいもので、彼を想えばこそ己を抑えるべきだと名前は思っていた。彼の選択を尊重し、名前の我儘など呑み込むべきだと。
ーーそうして後悔した過去があったにも関わらず。
「ありがとうございます。お陰でわたしにも時間ができました。……彼に何もかもを伝える時間が」
「……そう。それはよかった」
神農は目を細めて名前を見下ろした。
その表情は彼が地球を想う時と似ているものだった。親が子を見ている時のような、慈愛に満ちたものだった。
「伏羲は……彼は、僕らが残した希望なんだ。僕らと、この地球の……。そしてキミと彼の繋がりもまた、僕らにとっては喜ばしいものなんだよ」
神農はそう言って、名前の背を押した。
「いってらっしゃい。また暇になったら僕のところにおいで」
「……はい、行って参ります」
名前は彼と笑み交わし、そして首を捻る太公望の元へと向かった。
「お待たせいたしました」
「いや……いったい神農のやつと何を話しておったのだ?」
四不象の背に乗り、名前は前に座る太公望に腕を回した。四不象はすぐに飛び立ち、名前の体は浮遊感に包まれる。
どこまでも続く蒼い空。吹き抜ける心地いい風。そんななかで太公望から向けられた目に、名前は微笑んだ。
「……秘密です」
そうすると太公望は目に見えて不満そうにする。けれど名前にはその表情すらも愛しくーー腕の中にある温もりに頬を緩めた。
「ねぇ、太公望さん。わたし、行きたいところが沢山あるんです」
ぎゅっと力を籠める。抱き締めた手に。もう二度とそれを失うことがないように。
自分より広い背に頬を擦り寄せ、名前は囁いた。
「晋国の夏と戎狄の融合した文化というのも見てみたいですし、刑国の北方防御の様子も気になりますし……東方にも行きたいわ。斉は淮夷を征伐したとのこと……、あ、東方といえば魯国も……」
「ま、待て待て名前、そういっぺんに言われても……」
「……でも、」
名前は目を上げた。顔を上げ、太公望を見つめた。目を逸らすことなく。包み隠すことなく。
太公望が躊躇った分の距離を詰め、名前はその頬に手を滑らせた。
「それはひとりじゃ意味がないのです。わたしひとりじゃ……、あなたが、太公望さんが、共にいてくれないと」
「名前……、」
「わたしは太公望さんのことが好きです。好きだから、離れたくない。あなたがどれほどの覚悟でその選択をしたのだとしても。そうすることが最善なのだとしても。……わたしは、あなたと共にありたい」
一度口にしてしまえば、心は次から次へとこぼれ出した。とめどなく溢れ、流れ落ちた。それでも想いが止むことはない。今この瞬間にも募り続けていた。
彼の瞳は揺れていた。先刻の名前と同じように。
揺れ惑い、そして。
「……わしとて、離れがたいと思っておる」
長い息を吐いて、彼は呟くように言った。負けたよ、そう眉尻を下げ。彼は、目を伏せた。
「おぬしに選ばせたのも、それならばどちらの道であろうと受け入れられると思ったからだ。……卑怯なことだろう?」
「……いいえ」
自嘲ぎみな笑みに、名前は首を振った。
最初に太公望は名前に訊ねた。旅を急ぐか否か、と。そして名前は選んだ。太公望とできるだけ長くいられるように。
思えばその時から名前は選んでいたのだ。彼の決意よりも己の我儘を。
「わたしもあなたに任せたつもりになっていましたから。あなたが決めたことだから、と。そうすることで逃げていました」
「だが、おぬしは選んだ」
そこで太公望は少しだけ顔を歪めた。「わしはおぬしとは違う」最初の人という、仙道すらも超越した存在。不確定で不安定な身。太公望は己では未来を確約できないと名前に告げた。これから先、変わらず名前とあり続けられるかわからない、と。
「またおぬしを傷つけることがあるかもしれない。あのような危険な戦いに身を投じることになるかもしれない。それでも、」
「ええ、構いません」
名前はほんの少し首を伸ばした。身を寄せ、太公望の唇に自身のそれを重ねた。
「こうして触れ合える距離にあなたがいる。……それが今のわたしの幸せです」
微笑むと、太公望は「卑怯だぞ」と眉をひそめた。しかしその頬が鮮やかな色を灯しているのは隠しようもない事実で。
同じ熱を感じながら、名前は彼の肩に顔を埋めた。
未来のことはわからない。彼と離ればなれになることだってあるかもしれない。それを受け入れる日が来るかもしれない。何が起ころうとも、今の名前にはどうしようもないことだ。
けれど、今は。
今はただ、側にある温もりを感じていたかった。永劫離れることはないと信じていたかった。幸福な未来を、思い描いていたかった。