武官、十絶陣に遭遇する
次の朝を迎えた時、太公望はもう常と変わらなかった。それこそ、昨夜のことが嘘のように。
そして名前もそれを指摘しなかった。昨晩の出来事を口にすることすら。しかしそれでいいのだと思う。それが太公望のためになるのならば、名前にそれ以上言うことはない。
そして金鰲島に潜入してから二日が経つ頃。
「これは……空間のひずみ……?」
ようやく普賢真人のレーダーに反応があった。この付近に何かあるらしい。その言葉に、名前たちは体を固くする。
「れっ……例の聞仲さんのいる『核』っスかね?」
「さぁそこまでは」
さすがの普賢真人にもその正体は掴めないらしい。だが何かあるとわかっただけで大きな収穫だ。お陰でこちらも身構えることができるし、みすみす罠にかかることもないだろう。
そう考える名前の横で、「おおそうだ忘れておった!」と太公望が声を上げた。四不象の『核』という単語に何かを思い出したようだ。
彼は宝貝でんわを取り出すと、金鰲島にいる崑崙の仙道たちに一斉に指示を出した。曰く、『核』を発見したとしても聞仲に手を出してはならぬと。まずは十天君と決着をつけると。
そう言って、彼は電話を切った。
そのすぐあとだ、四不象が目を丸くしたのは。
「あっ!!見るっス御主人!!!あんな所に美味しそうな果物がっ!!!」
声に、名前たちは揃って四不象の視線の先を追う。
彼の言葉通り、金鰲島の星々の間に大きな樹が一本植わっていた。そして緑豊かに繁った枝の先には不思議な形をした実がなっている。
「天の恵みっス助かったっスーーーッ!!!」
「待てスープー!!!」
最後に食事をしてから既に一日経っている。空腹を訴えていた四不象には極楽にすら見えたろう。
嬉々として飛び出しかけた四不象を引き留めたのは太公望の鋭い声だった。
彼は険しい顔つきで普賢真人に訊ねた。あれが先ほど言っていた空間のひずみか、と。
「十中八九……さっきのひずみの出所はここだね」
「見るからに怪しいですものね……」
太極符印を見下ろす普賢真人の隣で名前はそっと剣に手をやった。
金鰲島内部にこれまで緑は見られなかった。人工的な空間の中に突如として現れた自然。しかもそれが果実の形をしているなんて、空腹の名前たちを誘い込むための罠としか思えない。
おまけにその果実すら名前が見たこともないもので。名前には、「そんな……」と肩を落とす四不象を慰めるしかできなかった。
「十絶陣の入口やもしれぬ!まずはわしが行き調べよう!!」
「お気をつけくださいね、太公望どの……」
「うむ」
黄巾力士から飛び降り、太公望は大樹へと手を伸ばす。そして枝にぶら下がる果実をもぎ取ると、なんの躊躇いもなくそれを口にした。
「むうっ!これはっ!!」
ぴくり。大仰な反応に、名前の肩も揺れる。
いったい太公望はどうしたというのか。
そう聞くより早く、彼は手にした果実にかじりついた。一つだけではなく、二つも三つも。両手で掴み取り、貪り食っていた。
その様子に察しがつく。
「ああっ御主人ズルいっス!!!」
「スープー危険だ来るでないっ!!!」
「うそっス!!その果物を一人じめするつもりっスー!!!」
四不象は我慢ならぬと名前の手をすり抜け飛んでいく。果物を守ろうとする太公望とそれを奪い取ろうとする四不象。そんな二人の攻防を、名前はハラハラと見守った。
「ど、どうしましょう……?危険なのでは……」
「うん、でも……」
普賢真人が何事か言いかけた時。
「ーーーむ?」
「ーーーーーー!!」
目映い光が弾けた。と同時に、太公望と四不象の影が白い閃光に呑まれていく。
「お二人が……っ!」
光が収束した後、二人の影はもうどこにもなかった。
いや、二人だけじゃない。目の前に確かにあったはずの大樹すら、跡形もなく消え去っていた。
代わりに残されたのは八角形の印ーーそれは十天君の十絶陣であることの何よりの証だった。
「やっぱりワナだったみたいだね……仕方ない、僕たちも行こうか」
「は、はいっ!」
普賢真人は穏やかな顔のまま名前の手を取り、十絶陣の中へと飛び込んだ。
十天君。崑崙十二仙がそうであるように、金鰲島を象徴する仙道たち。その力がどれほどのものか名前はまだ目にしたことがない。
だから太公望たちが連れ去られ、青ざめた。体は強ばり、緊張が駆け抜けた。
けれど、普賢真人に手を取られた瞬間。彼が普段の通りに微笑んでいるのを見て、そしてその温もりを感じて、名前の肩から力が抜けていった。
恐れはある。だがもう躊躇いはなかった。普賢真人の、存外に力強い手のお陰で。
ーー何も、恐れることはないのだ。
「……わかり合えないって悲しい事だね」
そしてその予感は見事的中した。
普賢真人はなんの苦もなく袁天君を封神した。その顔は涼しげで、封神した相手に涙を見せるほどに余裕があった。
けれど彼は心底悲しんでいた。戦いが嫌いだというのもそれ以外の道を探すのも、普賢真人は真剣だった。真剣に、敵を理解しようとしていた。
それが愚かだと袁天君は言っていた。けれど名前はそうは思わない。普賢真人は愚かなどではない。むしろずっと強く、聡明だと思った。
昔も今も争いは絶えない。だが昔から賢い将は国と民を守ることを一番に考えてきた。敵をただ殺すのではなく、捕虜すら味方に引き入れ戦力とすることが最善であると。智将は敵に食むと。そう言われてきた。
戦いでは双方が痛みを受ける。けれど、普賢真人の言う通りわかり合うことができたなら。そうしたなら大地が傷つくことも民が痛みを負うこともなくなる。
「普賢さまはすごいですね……」
「そんなことはないよ」
尊敬の眼差しを向けても、普賢真人は困ったように笑う。結局武力による解決となってしまった、と。彼は悲しげに目を伏せた。
だからこそ余計に名前の中で尊敬の念が高まる。太公望の策にも感嘆させられてきたが、彼の友だという普賢真人もまた名前にはできないことをさらりとやってのけてしまう。
「勉強になります、本当に。わたしも戦いばかりでなく他の解決策を思いつけるようにならなければ……」
「いやいやいや、名前はそのままでいいぞ!」
これが戦争のただ中でさえなければ普賢真人に教えを乞いたいところだ。
そう目を輝かせる名前に、太公望は突っ込みの手を入れる。
「普賢が悠長にしておるせいで、ほれ!わしらは凍え死ぬとこだったのだぞ!!」
「うう、寒いっス……」
袁天君の残した爪痕は大きかったらしい。体を震わせる四不象の体を名前は慌てて撫で擦った。少しでも早く温まるように、と。
「でもやっぱり対話の可能性があるならそれに賭けてみたいと思わない?」
「それにも限度があるっちゅーに……」
太公望はぶつぶつと不平を並べていた。が、本当に怒っているわけではないことくらい名前にもわかった。彼のはむしろ怒りというより呆れだろう。
そして名前にわかるということは普賢真人にも伝わっているということで。
「ごめんごめん、次は望ちゃんを巻き込まないように気をつけるよ」
「いやだから……」
言いかけ、太公望は諦めた。「おぬしは頑固だからな」と溜め息を吐いて。
それは二人の仲の良さを伺わせるもので、名前は普賢真人と目を見合わせて微笑んだ。