太公望×(姉属性+小悪魔)姫昌の娘3


 魔家四将による襲撃を受けて以来、周では開戦への気運が高まっていた。民に慕われていた姫伯邑考の死、及び西伯侯姫昌が殷王家に捕らえられて以来燻っていたものが一様に弾けたのだろう。
 そしてその大きな流れは否が応でも名前を巻き込んでいった。

「……いえ、舞楽隊は八イツにしましょう」

「ですが諸侯は六イツが常では……」

「だからこそよ。殷王家に正当性はない。それを目に見える形で表さなきゃ」

「……かしこまりました」

 立ち去る文官を見送り、名前は人知れず溜め息を吐いた。
 周が挙兵し、殷へと進軍する。それを目前に控え、西岐城では決起集会が開かれることとなった。民の心をひとつにし、武王の元に集わせる。決起集会はそのために周の軍師が企画したものだった。
 それに異を唱えるつもりはない。ただ、あまりに目まぐるしく変わる日常に、名前は寂しさに似たものを感じていた。幸福だった日々。西伯侯姫昌の娘であるだけであった日常。そこには父がいて、兄がいた。名前の前にはいつだって二人がいた。それが当たり前だとずっと信じていた。
 けれどもう二人はいない。だから名前はひとりでも歩いていかなければならない。この混沌とした世界で、ひとり。

「お、こんなとこにいたのか」

 名前、と遠慮なく呼ぶ人はこの西岐では少ない。名前は姫発のように町を闊歩していないし、そう呼ぶ人たちは喪われたばかりだ。
 だから、心臓が音を立てたのは驚いたからだ。珍しいことに慣れていないだけだ。大した理由なんか、ない。

「……あら、太公望クンじゃないの。どしたの?おねーさんになにか用?」

 名前はいつも通りの笑みを浮かべて、視線を落とした。
 西岐城の広場、そこに面した堂の上に名前は立っていた。明日何万もの市民が集まるであろう広場を見下ろして。
 名前は姫発が立つ予定の場所に立って、遠ざかる過去を想っていた。
 なのにそれを遮ったのは、西岐をそう導いたはずの軍師、太公望だった。
 太公望は壇上に続く西階段に足をかけていた。彼はそのまま歩を進め、あっという間に名前と同じ目線の高さまでやって来た。

「……姫発のことが心配か?」

 そして、彼は目を走らせた。遠くて、近い。彼の目は広場を見ているようで、まったく別の場所に目を馳せているようにも見えた。たとえば、そう。周の行く末だとかに。
 名前は目を閉じた。そうするといくらでも思い出せた。まだまだ小さかった頃の弟のことも。いつの間にか名前の身長を追い越していた彼のことも。
 一度、そうしてから、名前は微笑んだ。

「……いいえ」

 と。
 心配はしていない。その未来を思うことはあっても。名前が本当に弟の道を案じることはなかった。
 ただ、名前は。

「寂しいだけなの、ちょっとだけ……」

 風が吹く。それは父が亡くなった日と同じように静かに。けれど間違いなく名前の頬を撫で、長い髪を踊らせた。
 名前は頬に落ちた髪を耳にかけた。よく晴れた空は足元に黒々とした長い影を落としていた。

「……もちろん、弟の成長は嬉しいわ。お姉ちゃんだもの。ずいぶん立派になったんだなぁって……うん、だから寂しいんだけどね」

 名前は笑い、頭を掻いた。あはは、と。照れ笑い、取り繕うように「これが子離れってヤツかな?」と言い添えた。
 だが太公望は笑わなかった。彼はただ静かに名前を見つめた。
 だから名前の笑い声も薄れ、消えていった。後に残ったのはなんとも言いがたい気まずさ。居心地の悪さに、名前は「じゃあ私はそろそろ……」と暇を告げようとした。
 ーーけれど。

「……名前、」

「……っ!」

 立ち去りかけた名前の腕が掴まれた。
 そんなことができるのは一人しかいない。ここにいるのは太公望と名前だけなのだから。
 そう、彼はーー太公望は、名前の手を掴んだ。手首に回った温もり。その拘束力はさしたるものではない……のだろう。
 だが名前にはほどくことができなかった。太公望の目。静かな夜明けの空に射すくめられ、名前は身動きひとつできなかった。
 ーー心臓がばくばくとうるさい。
 ーー頭は真っ白でなにも考えられない。
 ーー視界から彼以外が遠ざかる。

「……ぁっ、」

 なぜ。どうして。
 言いたいことはあるはずなのに、何一つとして言葉にならなかった。名前の口が奏でたのは、空気を震わせる吐息じみたものだけ。名前の体はその機能を失っていた。
 そして、太公望も。
 名前を引き留めたのは彼だ。他ではない、彼自身がそうしたのに、彼はそれ以上のことを起こさなかった。
 彼もまた、目を見開いていた。名前を見つめて。その瞳に名前だけを映して。驚いたような顔をして、名前を見つめていた。
 それは時間にして数秒のことだろう。
 太公望はすぐにパッと手を離し、

「……っ、すまぬ、そんなに驚かれるとは、」

 と目を逸らした。
 だから名前も名前で視線をさ迷わせ、言葉を探した。太公望に掴まれた手首を押さえながら。

「う、ううん、私こそごめんなさい」

 ほんの数秒のことだった。瞬きほどのことだった。
 なのに、名前には永遠よりも遠く思えた。永遠よりも遠く、長く、果てしなく思えた。
 心臓はまだ早鐘を打っていた。でも名前がそこに触れることはなかった。そうしてしまったら、ーー受け入れてしまったら。
 その先のことを考えるのが怖くて、名前は手首ごと自身の体を抱き締めた。微かに残る感触が、嫌になるほど熱かった。

「そっ、それでどうしたの、何か用があるんじゃ、」

「いや、まぁそうなのだが……」

 太公望は言い淀んだ。
 動揺を隠しきれない名前に対し、彼はもう先刻のことを気にしていないように振る舞った。あるいは本当に気にならないのか。口ごもったのは言葉通り驚いただけなのか。
 ーー熱を感じているのは、名前だけなのだろうか。

「…………、」

「ど、どうしたのだ名前、なんだか顔が怖いぞ……」

「……ううん、別に」

 ーーなんだかそれってすごい悔しい、……気がする。
 名前はツンと顔を背けた。自分でも我儘だと思うが、名前の中では名状しがたい苛立ちのようなものがあった。沸き上がるそれは名前の目を険しくさせ、太公望を狼狽えさせた。
 けれどそれだけでは名前は満足できなかった。そういう顔が見たいのではない。そうじゃなく、名前はーー

「……ねぇ、知ってる?明日の舞踊では私も踊ることになってるって」

「お、おお。そうらしいな」

「でもバタバタしてて全然合わせられていないのよね。まぁ私は本番に強いから失敗なんてしないと思うけど……」

 だから、と名前は顔を上げた。太公望を見つめ、笑った。
 距離を詰めた先には彼しかいない。彼だけに身を寄せ、その手を両の手で包んだ。包み込み、握り締めた。
 心臓が音を立てている。頬には熱が灯っている。でも指先に震えはないし、顔には自然な笑顔が広がっていた。

「ーー私と、踊ってほしいな」

 ーーただ、彼に触れているだけで。
 それだけで心には温かなものが満ちる。
 どきどきしてるのは変わりない。でも、嫌じゃない。そのどきどきがなんだかクセになる痛みで、それに伴う甘さすらいとおしいもので。
 だから名前は彼の手をとった。

「お、おい!?わしは踊りなどわからんぞ!!」

「あはは、知ってる。キミってこういうのちっとも似合わないもんね」

「お、おぬし……」

 不服そうな、不満そうな。しかし反論もできないといった複雑な顔をした太公望は口を曲げていた。名前に手を引かれ、くるくると振り回されながら。
 そこに型なんてなかった。遠い異国の遊牧民のような、自由で勝手で、気ままな踊りだった。

「でも、私は」

 距離が縮まる。世界は集束する。名前の目が、意識が、彼だけに埋めつくされる。

「……好きだよ、」

 見開かれる目。それを確認し、名前は満足げに笑みを深め、手を離した。
 ーー名前。そう呼ぶ声に、背を向ける。

「……こういうのもたまにはいいよね、息抜きになって」

「う、うむ……?」

「付き合ってくれてありがと」

 名前は振り返り、片目を閉じた。悪戯っぽく、子供のように。

「……はぁぁぁ」

 そうすると太公望は深々とした溜め息をこぼした。長く、長く。
 それにまた笑いながら、名前はこっそり胸を押さえた。
 未だ強く胸を打つ心臓を。