太公望×(姉属性+小悪魔)姫昌の娘4


「それで?結局太公望クンの用事ってなんだったの?」

 ひとしきりからかい、その反応に満足してから、名前は語調を改めた。

「わざわざ私に会いに来たってことは頼み事でもあるのかな?」

 なんでも言ってごらん、と名前は年上ぶって胸に手をやる。
 得意の微笑を浮かべ、身を屈め。太公望を覗き込む名前には余裕があった。油断していた、と言ってもいい。
 ーーだから。

「……今晩空いておるか?」

 そうだった、と手を叩いてから。彼もまた表情を改めてーー真剣な眼差しで、声で、名前を見据えた。

「……え?」

 だから、名前は間の抜けた声を上げてしまった。目を瞬かせ、それから。

「えっ、え……?」

 かぁっと熱が駆け上る。唇は戦慄き、視線はさ迷う。心臓が鳴らす警報で聴覚は麻痺しているし、目は勝手に彼の意外と骨ばった指先だとか引き締まった体とかそういうのばかり追いかけてしまう。
 嫌になるくらい、名前の全部が彼を意識していた。

「そっ、そういうのはいくら友達でも早いんじゃないかな〜、なんて、お姉さんは思ったり思わなかったりしたりして……」

「……?なんだ、先約があるのか?」

「せ、先約!?そんなのはない、けど」

 首を傾げる彼から目を逸らし、名前は自身の体を見下ろした。
 余分な肉は落とし、けれど女性らしい輪郭は残る名前の体。悪くはない、と自負しているし、実際そうであるように日々気を遣っている。
 ーーけれど、それとこれとは別なのだ。
 やっぱりやめよう。
 そう、名前は言いかけたのだけれど。

「……嫌なのか?」

 太公望の眉が下がっているのを見て、固まった。

「い、嫌じゃないよ!!」

 言ってから、しまったと思った。条件反射のように否定してしまってから。言ってしまったことはもう取り消せないというのに。
 でも言わずにはいられなかった。訂正することも、これ以上食い下がることも。名前にはできなかった。どこか悲しげな顔をした彼を前にしては。
 名前にはもう、流れに身を任せることしかできなかったのだ。

「ならば今晩わしの部屋に来てほしい。頼んだぞ」

「あうぅ……」

 太公望が去ったあと。名前はひとり呆然と立ちつくしていた。
 静寂。そこに他者の気配はなく、清涼な風だけが流れていた。名前の頬を撫で、いずこかへと。
 その風が熱を拐う頃、名前はようやく我に返った。そして一番にしたことといえば。

「……痛い」

 頬をつねり、現実かを確かめることだった。ハタから見れば馬鹿馬鹿しい……、名前自身もどこかでそう思いながら、けれど体は勝手に動いていた。

「き、きっと何かの間違いだよね、うん。彼のことだもの、深い意味なんてないわ」

 言い聞かせても、名前の頭はまったく別のことを考えてしまう。それは名前より年嵩の女官から聞き齧ったことだとか、「"そういうこと"は殿方にお任せすればいいの」とおしえられたことであったりした。そしてそれは名前の中でひとつの想像を形成していった。嫌がおうにも考えずにはいられなかった。それはある種期待にも似ていて。

「ど、どうしよう……」

 収まったはずの心臓が音を立てる。先程までとは比べ物にならないくらいに。
 ーーけれど。

「……まぁ、そんなことだろうとは思ってたけどね」

 不安と緊張と、ーー隠しきれない期待。様々な感情がない交ぜになったまま、その夜名前は太公望の部屋を訪ねた。
 しかしそこにいたのは彼だけではなく。

「なんだよ名前姉、溜め息なんて吐いて……らしくねぇな」

「……お姉さんだってそういう日くらいあるの」

 何も知らないはずの弟からの指摘に、名前は米神を押さえた。
 そう。夜の帳の下りた室内には太公望だけでなく、名前の弟、姫発の姿もあったのだ。
 それだけで何となく察しがついて、名前は脱力する。これまでの緊張と覚悟は一体なんだったのだろう。そればかりを考えて今日は一日上の空だったというのに。

「でもそうよね、予想通りといえば予想通りのことなんだけど……」

「なんの話だ?」

 「よく来てくれた」と笑顔で名前を迎えた張本人は、本当に何のことかわかっていないらしい。策士といっても男女の機微には疎いのか。それとも……察した上で避けているのか。
 後者だったらやりきれない。いややりきれないどころか、名前にはそれほどの恥辱を耐え忍ぶ強さはない。いっそ切り捨てられた方がよほど楽だし、それならそれでさっさと嫁する道を探すことだってできる。もっとも、可能性が生まれた時点で今すぐにも敗走したいくらいなのだが。
 同じくらい別の可能性もーー名前の期待にすぎないとしても、"それ"があるからーーどうしても縋りたくなってしまうのが悲しいところだ。

「……んーん、なんでもない。気にしないで」

 名前は手を振って笑った。それは考えても仕方のないこと、答えは彼自身が与えてくれない限り名前にはわからない。
 だから、「気を取り直して、」と名前は居住まいを正した。

「それで?私は愛する弟に何をすればいいのかな?」

「おお、話が早くて助かるのう!」

 実はな、と彼が取り出したのは一枚の紙切れだった。
 『われ、武王はここに宣言する』その一文から始まる文章の手が太公望であることは見ただけでわかった。彼の手は伸びやかで、見ていて楽しいものだからだ。一般的に求められている洗練された手には及びもつかないが、名前は彼の自由な筆の運びが嫌いではなかった。

「……そういうこと、」

 太公望による文章。冒頭にある文言。その二つから、名前は諒解した。
 肩を竦め、弟を見やりーーもう一度太公望に視線を戻す。

「発ちゃんが明日までにこれを覚えられるよう監視していればいいってことでしょ?いいよ、こういうことはお姉さんに任せなさい」

「察しがいいのう……さすがは姉といったところか」

「そりゃあね」

 感心する太公望に、名前は笑った。姫発が生まれた時から名前は彼の姉をやっているのだ。たとえ胎は違おうと、過ごしてきた年月に偽りはない。彼のことはよくわかっている。

「名前姉までンな事言うのかよ〜!可愛い弟を監視だなんてよぉ……」

 彼がこう言うことだって。
 こんな時ばかり姉に泣きつく姫発を、名前は冷たくあしらった。あえて、心を鬼にして。

「可愛い弟が明日民衆の前で醜態を晒さないで済むようにっていう姉心よ、これは」

「そうだぞ、だいたいおぬしがさっさと暗記していれば監視などという話にもならなかったのだからな」

「くそー……」

 臍を曲げた姫発。だが彼は不満そうな顔をしながらも、太公望直筆の原稿に腹を据えて向き合った。

「せめてなぁ……褒美でもありゃあなぁ……」

 そんな風にぶつぶつと未練がましい呟きを洩らしてはいるが。
 しかしその姿は幼い頃と変わりない。書学の筆写をしている時なんかは特に同じように難しい顔をしていた。詩歌の暗唱も不得手で、それよりは楽や射の方が楽しんでいるように見えた。
 ーーそう、変わらないものもあるのだ。いくら彼が王となっても。名前の背を追い越していっても。姫発が名前の弟であることになんの変わりもない。今も、昔も。

「……もうっ!お姉さんのご褒美のちゅーじゃ不満だっていうの?」

「そんなん今さら有り難くもなんもねぇよ……」

「失礼ね、選り好みできるような状況じゃないくせに。ね、太公望クン、」

 姫発の女好きというか女性への積極性は周の民衆も知っている周知の事実だ。そしてまったくもって相手にされていないということも。太公望との出会いの時すら女性を追っかけていたというのだから、こればっかりは姉としても頭が痛い。
 そう思い、名前は太公望に水を向けたのだけれど。

「……太公望クン?」

「なんだ、眠くなったか?」

「……いや、」

 なぜか彼は微妙な表情を浮かべていた。微妙な、形容しがたい顔を。
 そこに含まれた感情の幾つかを名前は読み取ろうとした。けれど彼はすぐに笑顔で塗り替えてしまう。

「武王がこれでは頭が痛いと思ってな。身を引き締めてもらわねば」

「うげぇ……余計なこと言っちまったな、名前姉」

 姫発は何も気づかなかったらしい。あるいは名前の気のせいだったのかも。
 とにかくもう太公望の顔に違和感はない。いくら気にかかろうと、名前にはもう推し量ることすら不可能だ。
 姫発に肩を抱かれながら、名前も「そうねぇ」と相槌を打つしかできなかった。