宅配便

 一回、二回、三回。喫茶ポアロに響くくしゃみ。

「風邪?」

 梓に心配され、慌てて手を振る。「いえ、熱はないので……」くしゅんっ!言ってるそばからまたむず痒さが込み上げる。鼻の奥がくすぐられてるような感覚。でも出るのはくしゃみだけで、鼻孔がやけに鋭敏になっている以外問題はなかった。

「じゃあ花粉かな」

 ちょうど客足が引いて暇なのか、梓はカウンター越しに身を乗り出した。「ちょっと目も赤い気がするし」名前の顔を覗き込んで言う。
 花粉、花粉症。その意味は知っているしアメリカでも患者はたくさんいたけれど。

「なった覚えはないのですけど」

 鼻水、鼻づまり、くしゃみ、目の痒み。そんなものにかかっていたら仕事にならない。名前たちなら特にそうだ。鼻が使えなかったら存在価値の8割はないといえよう。
 しかし梓は名前に絶望を教えてくれる。「でも急になる人もいるから」それはあくまで善意からくる発言で。だからこそ余計に真実味があって。

「そんな、」

 カップに浮かぶ顔はあまりにひどいものだった。
 どうしよう。頭に浮かぶのはただひとつ。だって機能が低下したら――あとは棄てられるだけだ。狩りのできない猟犬に価値はない。
 想像したのは最悪の未来。つまり名前が――いや、やめておこう。名前は頭に手を当てた。心の中ですら言葉にするのも恐ろしい。

「でもそんなに酷くなさそうだし、薬飲めば大丈夫じゃないかな」

そんな名前を救ったのは梓だった。突き落としたのもまた彼女であったが。
 「今の時期ならスギかなぁ」梓は独り言のように呟く。

「すぎ、」

 すぎ、スギ、杉。言われて思い浮かべるのは観光地の樹齢ン千年の大樹。神秘的な緑。そこに憧れこそあれ恨みなどなかったのだが。あれが、原因だというのか。
 
「多いのよ、スギ花粉の人」

「そうなんですか……」

 アメリカじゃブタクサが一番の原因だった。名前はそちらには強くできていたけれどスギには弱かったというわけか。まさか日本で暮らす障害がこんなところにあろうとは。

「なんの話です?」

 ずいっと話に入ってきたのは透だった。マスターに何事か頼まれて奥で作業していたのだが終わったらしい。いつもの安室透の笑顔を浮かべて、彼は空気に溶け込んだ。
 透からは微かに香ばしい匂いがした。これはきっとコーヒー豆のものだ。喫茶店での安室透の香り。彼の淹れたコーヒーを飲みながら、名前は胸いっぱいに吸い込んだ。

「名前ちゃん花粉症みたいですよ」

 梓は簡潔明瞭に答える。
 すると、透は首を捻った。腑に落ちない、といった様子だ。
 だから名前は付け足した。「急になったかもって」ね、と梓に目で同意を求める。察しのいい彼女はすかさず頷いた。

「じゃあ今日受診しておけばよかったね」

 透は名前の目元に指を這わせる。かわいそうに、と。細められた目。労るようにさする指先。

「明日……は休みか。なら明後日にでも病院に行こう」

 まるで重病人みたい。先程まで絶望しきっていた名前もさすがに驚く。梓にすっかり助けられてしまったものだから、透の心配が過剰に思えた。

「急がなくていいですよ、そんなに酷くないし、鼻も……」

 きくのは変わりないし。と言いかけて、梓の前だったと飲み込んだ。鼻がきくだのきかないだの、そんな動物みたいな言い回しをしたらさすがの彼女も疑問に思うだろう。
 それに、透にはみなまで言わずとも伝わる。

「……でも気に病むだろう?」

 花粉症を、ではない。それだけではないのは、安室透じゃない目で分かった。
 優しい探偵はにっこり笑って名前から離れた。

「一応風邪じゃないかも見てもらおうか」

 今日もリハビリで病院に行ったというのに、また病院か。あの匂いはもう飽き飽きなのだけれど。と、嫌気がさすほどの白を思い起こす。薬品と人のにおい。あれを快適に思えるのは頭のおかしな研究者くらいだと名前は思っている。だって名前は彼らしか知らない。名前を育てた研究者たちしか。

「リハビリってどれくらい進んでるんですか?」

 立て掛けられた松葉杖に視線が向く。「もう自由に歩けそう?」名前は笑った。

「梓さんのご心配には及びません。そのくらいには元気になりました」

 本当にその通りで、今日だって階段の上り下りの練習をしているくらいだ。走るのは禁止されているが、日常生活に支障はない。
 それを聞いて、「よかった」と梓は胸を撫で下ろした。

「でも名前ちゃんが遊びに来てくれなくなるのは寂しいな」

 と付け加える彼女はなかなかの魔性である。名前には抗う術もなく、ついつい今後の約束をしてしまった。
 それから梓は猫の餌やりに行った。「今日は遅いのね」とぼやきながら。
 彼女を見送った名前であったが、すぐにマスターが梓を呼ぶものだから、「じゃあわたしが呼んできますね」と立ち上がった。早く体を動かしたかったのだ。
 でも心配性の安室透はそれを押し止めようとする。「いやいや、名前は座ってて」腕をそっと引かれるが、名前は唇を尖らせた。

「これくらい平気だから」

「そういって無理するんだろう」

「そんなことしないもの」

「どうかな」

 こうやって言い合ううち、結局二人揃ってドアを開ける羽目になった。
 やれやれ、頑固なんだから。お互い呆れ顔で相手を見やる。

「梓さん、」

「マスターが呼んでますよ!」

 もう、と視線を鋭くしても透には効かない。彼は相変わらず名前の腕に手をかけていて、しかも名前がいつ倒れてもいいようにその背後で待ち構えていた。守られるべきはあなたの方なのに。そう訴えかけても右から左へ受け流す。
 そんな攻防を知らない梓は笑顔で透に何かを見せようとした。「これ何だかわかります?」その紙切れからは見知ったにおいがした。
 のだけれど。

「あ!」

 駆け抜けたのは突然の風。それは紙切れを奪い去り、どこかへ拐っていってしまった。小さな紙片はあっという間に見えなくなる。

「なんだったんですか?」

「いえ、なんでも……」

 梓はそう言うが、中断された話ほど気になるものはない。
 透を見上げると、彼もまた名前を見下ろしていた。ちらりと瞬く瞳。好奇心の色。

「さっきの、レシートですよね」

 少しだけ見えたそれの正体を名前が口にすると、やはり梓も気にかかるのか。すぐに食いついてきた。「ええ、そうなの」でも変なのよね。彼女は空の皿を拾いながら言った。

「タクシーのレシートの文字が消されていた?」

 いかにそのレシートが不思議だったのかを梓は正確に覚えていた。「印刷ミスかなと思いましたけど……」そう思ったわりによく記憶している。
 Corpse、すなわち死体。透は一瞬険しい表情を見せたが、すぐに素知らぬ顔を作った。

「この猫が毎日ここに餌をねだりに来るのを知ってるのは……」

「割りと最近来るようになったから……知ってるのは私とマスターと安室さんとそれから名前ちゃんと……」

 あとは、コナン君ぐらいですけど。
 梓の言葉に、名前は透と視線を交わした。またしてもだ。またしても、江戸川少年が関わっている。関わっているというより、もはや中心にいるといっても過言ではないだろう。
 今度はいったい何が起きたというのか。
 においを頼りに駆け出そうとした名前だが、「えっ」その足は宙を蹴った。

「行けるな、名前」

 囁かれ、思わず頷くが。

「マスターには急に体調を崩して早引きしたと言っておいてください!」

 いつの間にか脱いだエプロンを梓に押しつけ、いい笑顔で走り出す透。それはいい。それはいいのだけれど。
 ――どうして私は抱き上げられているのかしら。
 背中と膝裏にしっかり回された手。その理由が名前の負傷によるものだということは理解している。しているが、でも。
 わざわざ名前を抱えてまで移動する必要はないだろう。
 しかし今の透が答えてくれるとは思えない。レシートに残った江戸川少年のにおいを辿りながら、名前は疑問を頭の隅に追いやった。