魔犬


 夜が来て、朝が来る。なんの変哲もない、しごく平凡な朝が。

「おはよう、名前」

「おはよう、……零、」

 けれど昨日までとはほんの少しだけ違う、穏やかな朝がやって来た。

「零は今日も本業の方に行くの?」

 今までと同じように、名前は朝食を囲みながら彼に訊ねた。彼、安室透にーーいや、降谷零に。
 彼の本業が日本の公安警察だと名前は昨夜初めて知らされた。なんとなく察してはいたけれど、彼の口から明言されたのはこれまでにはなかったことだ。ここにはあまりに大きな差がある。彼にとっては、きっと。
 それがわかるから、名前の心はどうしようもなく震えた。彼からの期待に歓喜して。これからの未来に勇み立って。
 名前はただ、彼の役に立てるだけで幸せだった。

「ああ、それが片付いたらポアロに行くつもりだよ」

 自慢の出汁を使った味噌汁。それを飲んだ後で、零は平然と本日の予定を読み上げた。
 公安警察として働いた後は、喫茶店でアルバイトの真似事をする。普通に考えたら頭が痛くなるようなスケジュールだ。けれどいつもよりはハードではないのだと彼の口振りから察せられた。
 だから名前も安心してご飯に箸をつけた。ちなみに今日のご飯にはカブの葉が和えられ、上にはしらす干しが乗っかっていた。向こうにいた頃は食べる機会もなかったが、生臭さのないしらすは爽やかで名前は嫌いじゃなかった。

「じゃあ今夜は早く帰れるのね」

「そのつもりだけど、」

 ほんの少しの間。名前を窺うような眼差し。
 それだけで言わんとすることが伝わり、名前は眉間に皺を寄せた。あえて厳しい顔を作り、零を睨めつける。

「……休まなくちゃダメ。ただでさえ昨日は忙しかったんだろうし」

「わかってるよ」

 降参の意は軽く、怪しさが残る。が、彼が嘘を吐くような人ではないと名前は信じているので念を押すことはしなかった。たぶんきっと、名前が案じていることも彼には伝わっている。伝わっているから、大丈夫だ。

「ベルモットへの報告は明日に回してもらうよ」

「それくらい私がやるのに」

「いや、僕が直々に話した方がいいだろう。余計な疑念は抱かせたくない」

「……うん」

 その通りだ。彼の言う通り、ベルモットは先の一件に深く関わっている。だから彼から報告をするのが適切だ。
 わかっているからこそ、歯痒かった。雑事くらい彼から遠ざけてやりたかったのだけれど、どうにも名前ができることは限られている。

「家事は任せて。零ほどじゃないけど前よりはマシになってるし」

 名前の宣言に、零は目を細める。「知ってるよ」と。そう言って、微笑んだ。それはどんな神を象ったものよりも神々しく、光さえ差して見えた。
 でももう名前が視線を逸らすことはない。目を伏せることも、また。眩しいと、そう思っていても、もう名前はその光から目を離せなかった。

「じゃあ私は先に出るけど、くれぐれも無茶はしないで。夕御飯が冷める前に帰ってくるのよ」

「あぁ、わかってる」

 食事を終え、身支度を整え。名前は玄関に手をかけながら振り返った。
 見上げた先の彼はもう糊のきいた白のワイシャツ姿だった。だから名前が登校した後ですぐに彼も家を出るつもりなのだろう。だからこれ以上彼が家のことを片付けてしまう余裕はないはずだ。
 名前は自分の仕事が残っていることを確認し、「じゃあ、」いってきますと言いかけた。
 ーーのだけれど。

「ーーいってらっしゃい」

 一足早く彼に先を越されてしまった。だってしようがない。名前の口はたった今まで塞がれていたのだから。

「……いってきます」

 なんだか、調子が狂う。距離感が掴めない。彼がぐいぐいと詰めてくるから、余計に。
 これが当たり前なのだろうか。今度蘭や園子に聞いてみないといけない。どうにも名前には常識が欠けているようだから、この手のことは彼女らの力を借りなければ解決できそうもなかった。
 複雑な、しかし満更でもない感情を隠しきれない顔のまま、名前は彼に手を振って家を出た。
 高校までは徒歩で通っている。その間に熱を冷ませばいいだろう。そう考えていた名前だったのだけれど。

「おや?何かいいことでもありましたか?」

 男の姿を認め、名前の熱はすっかり霧散した。頭から冷水を浴びせかけられた。そんな気すらした。男の、沖矢昴の人を食ったような薄笑いを見ただけで。

「……あなたのお陰でたった今最悪になった」

「すみません、何かお気に障ったようで……」

 相変わらず胡散臭い男だ。まぁ沖矢昴自体が虚飾しかないのだから当然といえば当然なのだが。
 しかしここまでの不快感を他人に与えられるとは……なんて傍迷惑な仮面を作ったなと名前は思わずにいられなかった。
 これが誰の入れ知恵かわからないが、その人とはわかり合えそうもない。設定が赤井秀一からかけ離れすぎて事故みたいなことになってるではないか。

「あなたの存在そのものが気に障る。だからもう今後一切話しかけてこないでほしい」

 それを名前は正直に言った。名前が赤井秀一と会ったところで益もなし、彼にとってもそれは同じだろう。ならばお互いかかわり合いにならないのが得策だ。名前にとっても、赤井秀一にとっても。

「ははっ、手厳しいですねぇ……」

 なのに沖矢昴は笑った。赤井秀一の笑顔など、嘲笑か冷笑くらい種類はなかったはずなのに。まったく真逆の、やれやれとでも言いたげな笑みを男は浮かべていた。
 その表情にすら寒気が走り、気持ちの悪い汗が背中を落ちる。お陰で名前は及び腰になりそうな体を叱咤しなければならなくなった。
 できることなら近寄りたくない。けれど敵と接触して、逃げ道もないのに逃亡を図るのは愚の骨頂だ。敵が赤井秀一というなら、なおさら。逃げている間に背中から一発貰いでもしたらと考えれば、迂闊な行動は取れなかった。

「……私から情報を手に入れようとしているならそれは無駄。どんな責め苦を受けようと何も話すつもりはない」

「ですが"将を射んと欲すれば先ず馬を射よ"とも言うでしょう?」

 男の言葉を、名前は鼻で笑った。まさか、と。

「その馬は射られても怯まない。敵に噛みついてでも将を守る、……守ってみせるわ」

「……そうですか」

 残念です。そう男は眉を下げた。しかしそれが本心かまではわからない。あまりに嘘を纏いすぎて名前の鼻も麻痺していたし、たとえ男が本心から言っていたとしても名前の心が動かされる予定はなかった。
 男は意外にもそこで引き下がった。てっきり名前は汚い手を使ってでも降谷零を暴きにくるのだと思っていたのだけれど。
 ただ男は最後に余計な一言を残していった。

「それでは、また」

 また。なんて、嫌な響きだろう。それを聞いただけで名前は目眩がした。できるならもう二度と会いたくない。それくらい、名前にとって赤井秀一は天敵となっていた。