武官、武成王を見送る


 鏡の中の男が手を伸ばす。不気味に笑いながら。
 そしてそれを最後に、名前の意識は途切れた。

「いちーっ、何なのさこれは……」

 気がついたら名前は見知らぬ場所に座り込んでいた。いや、放り出されていたと言った方がいいか。
 目の前には太公望と楊ゼンがいて、太公望の方は天化と天祥を見て呆れた顔をしている。人間界にいろと言っただろう、と。

「へへーっ来ちゃった!」

 太公望の怒りも呆れもなんのその。無邪気に笑う天祥に太公望も毒気を抜かれる。名前は名前でその笑顔に癒されていた。

『ククク……これで役者は揃ったな』

 けれど、それを打ち破る声があった。それはまたも鏡の中の男で、彼は笑いを滲ませながら名前たちの前にある光景を映し出した。

「武成王さま……!?」

 そこには先程まで行動を共にしていたはずの武成王黄飛虎がいた。そしてその前には聞太師の姿もある。
 彼らは城を背に立っていた。向かい合い、武器を取り。決闘でもするかのようにしていた。
 その様子に、男の嗤いに、どうしようもなく嫌な予感がした。

『お二人さんよ。退屈な話はやめて早く決着をつけた方がいいと思うなぁ。じゃねぇと頭蓋を酸が侵食して脳がとろけるぜ?見物人も退屈してる事だしよ』

 鏡の中では雨が降っていた。真っ赤な雨。その紅色は血のように見えた。そう考えてしまったことに驚き、名前は体を抱き締めた。

「オヤジ!今の聞太師は危険さっ!!」

「お父さん早く出てっ!!!」

 天化が訴える。天祥が懇願する。切々と、身を乗り出して。
 太公望の顔にも焦りが見えた。動揺。それ以外の何物でもない表情に、名前の心臓は音を立てる。冷たいものがひたひたと足許を飲み込んでいく。

「…………、」

 あれほど必死に訴えかけたというのに、黄飛虎はそれに何も答えなかった。ただ飛刀を雨の中から投げ渡しただけだった。

「お父さん!!」

 天祥の悲鳴じみた声が名前の胸にも突き刺さる。
 ーーどうして見ていることしかできないのだろう。いつも、いつも。大切な人が傷ついているのに、どうして。
 名前が握り締めた掌からはいつの間にか鮮血が溢れていた。痛みさえなかった。皮膚を裂く感覚も。

「ちくしょう!あの聞太師には勝てっこねぇさ!!」

「お父さんお父さん!!」

 いくら叩いても手は届かない。鏡の中に行くことは叶わない。
 雨はしとしとと降り続いていた。そして聞仲の鞭を受けた黄飛虎の体からも。真っ赤な血が滴り落ちて、小さな水溜まりを作っていた。もうどれが雨でどれが血なのかわからなくなっていた。

「楊ゼン!王天君に変化し紅水陣を解除せよ!!」

「なるほど!」

 太公望の焦燥を孕んだ声に、楊ゼンは慌てて応えた。すぐさま王天君にーー鏡の中の男に変化し、鏡面に触れた。
 けれど。

「これはムリですね……」

 楊ゼンは変化の術で様々な宝貝を操ってきた。けれど今回ばかりは介入できない、と変化を解いた。
 紅水陣とは王天君自体が空間になっているものだ。だがこの王天君は楊ゼンの知る王天君ではない。今展開されている紅水陣は楊ゼンの知らない王天君のものだから解除することはできない。そう彼は語った。
 つまり名前たちにはどうしようもできないのだ。
 名前は絶望的な気持ちでまた紅水陣の中を見た。天化も天祥も。黄飛虎がふらふらになりながらも地を蹴り、聞仲の顔を殴り付けるのを。
 真正面から食らった聞仲はなぜか呆然としていた。先刻までの鋭さが消え、それはきっと黄飛虎のお陰なのだろうことが外からも伺い知れた。
 なのに、雨は無情にも降り注ぐ。雨脚を強め、二人の体を乱暴に打ち付ける。

「ああっ……雨が強くなったよ天化兄様!!お父さんがとけちゃうよーーっ!!!」

「くっ……」

 天祥は涙を浮かべていた。
 お父さんが溶けちゃう。それは今まさに現実にされようとしている。そうなっていることが天化にもわかったから、彼は悔しげに歯噛みした。

「スース!十二仙は何やってるさ!!十二仙なら何とか出来るはずさ!!」

 彼の言葉に、名前はハッとする。
 そうだ、十二仙がいた。彼らは太公望の元へ向かったはずだ。聞仲を倒すために。それを名前は見送った。そのはずなのに、彼らの姿がどこにも見えなかった。一緒に発った楊ゼンは傍らにいるのに。

「…………、もうおらぬ……」

「ーーーー!!!」

 太公望の声は静かだった。けれどその言葉ははっきりと響いた。名前たちの前に落ちて、広がった。
 天化は息を呑んだ。名前は思わず口を押さえた。
 十二仙はもういない。それは、つまりーー

「それじゃあ……道徳コーチは……!?」

「十二仙のうち十仙の死は確認済みだよ……。現時点で生き残っているのは太乙様のみ……、道行様は行方不明だ」

「そんな……!」

 名前の脳裏に記憶が去来する。十二仙。そのほとんどと名前はこの戦いで初めて顔を合わせた。けれど彼らは印象深いものを名前に残していった。
 玉鼎真人との約束。道徳真君との未来。普賢真人からの助言。そのどれもがまだ名前の中で生きていた。色濃く、鮮やかに。
 ーーなのに、その中の誰一人としてもうこの世にはいないのだ。

「道徳様は最期に……これをキミにと……」

「コーチ……」

 楊ゼンが差し出したもの。道徳真人の莫邪の宝剣を、天化は呆然とした声で受け取った。受け取り、それを顔に押し当てた。

「畜生……ちっくしょー……」

 天化の顔は見えなかった。名前からはその表情すら。
 でもその声は泣いているみたいだった。泣いているみたいに潤み、掠れていた。こちらまで苦しくなるほどの悲しさが彼からは感じ取れた。
 そうしている間にも雨は激しさを増していく。音はもう滝のように響き、地面を打ちすえていた。

「聞仲よぉ……目ェ覚ませよ……」

 なのに黄飛虎は止まらない。最早立つことすらままならないほど皮膚は裂かれ、肉は削られているというのに。
 それでも彼は血にまみれた手を聞仲に伸ばした。

「もう俺とおまえの殷は失くなっちまったんだ……もうねぇんだよ……」

「違う!」

 二人の姿はもう名前たちからはよく見えない。紅い霧に巻かれ、影しか捉えられない。だが聞仲が動揺していることだけは伝わってきた。黄飛虎が何かを訴えかけようとしているのだけはわかった。

「だから飛虎!無駄な事はやめてここから出ろ!!!おまえは私の敵だろう!!?」

 彼は、聞仲を救いたいのだ。止めたいのだ。もうひとりでは立ち止まることすらできなくなった友を。親友を彼なりのやり方で止めるために、黄飛虎はその命を賭けているのだ。

「フ……やっともとのツラに戻ったな、聞仲……」

「だ……だめだ……飛虎……行くな……」

 そんな彼をどうして止められようか。彼は、何もかもを理解して、受け入れた上で、そこに立っているというのに。

「太公望どの!!!後は任せたぜ!!!」

 黄飛虎が叫ぶ。最期に、一言だけ。
 言い残し、彼は旅立った。紅い雨を切り裂いて、遠く遠く、空の向こうへ。
 ーー手の、届かないところまで。

「うわああーーっ!!お父さんが!!お父さんがぁ!!」

「オヤジ……」

 天祥は泣きながら天化に縋りついた。天化は血を吐くように呟いた。
 楊ゼンはただ「武成王……」とその魂魄を見守り、そして後を託された太公望は深々と頭を下げた。
 そして、名前は。

「…………」

 ただ唇を噛み、俯いていた。何を言えばいいのかわからなかった。幼い天祥を慰める言葉すら思いつかなかった。
 黄飛虎は己の意志を貫いた。最期まで彼は友を想い、そして散っていった。
 結局名前にはそんな彼に敬意を表することしかできなかった。