武官、肩を貸す


 豊邑からの旅は何日にも及ぶ行軍だったというのに、崑崙山から豊邑へは一日足らずで到着してしまった。空の旅は快適とは言い難かったけれど、お陰でその日のうちに名前は武王に報告することができた。仙界大戦。その結末を。
 それが終わると名前は数ヵ月ぶりに我が家へ帰った。もはや懐かしさすら感じる母や弟たちと再会を喜び、名前は泥のように眠った。夢はみなかった。たぶん、それでよかったのだと思う。

「今日くらい休んでもよかったんだぞ?」

 翌朝、西岐城へ出仕した名前に、姫発はそう言った。労りの眼差し。それを浴びてなお、名前は首を振る。

「いいえ、……今は、働いていたいのです」

「……そうか」

 姫発が深く聞いてくることはなかった。そうか、と静かに言うに留めた。けれど名前の頭を一瞬だけ撫でていく手は温かく、泣きたくなった。なぜだか、無性に。
 姫発への言葉に嘘はない。名前は心からそう思っていた。動いていなければ、ふとした時に逆流に呑まれてしまう。そんな気さえした。
 だから名前の行動はただの自己防衛で、酒に逃避している父、南宮括と少しも変わりない。ただその方向が違うだけで。未来のために今を生きることで、彼らに報いたいと思っているだけで。
 しかしそんな時ほど仕事がない。不在の間の軍の様子、及び辺境からの報告を受けると、午後からはすっかり予定が空いてしまった。
 なんだか皆に遠慮されているな、と名前は空を見上げてぼんやりと思った。部下たちは戦場帰りの名前を案じ、仕事を回そうとしなかった。これくらい自分たちだけで平気だ。そう言われてしまえば名前が口を挟む余地はない。それが彼らの心遣いなのだと知っているから、余計に。
 でもそれでは困るのだ。
 名前は少し考え、厩へ足を向けた。咄嗟に思いついたのが厩だっただけで、そこに深い意味はない。別に庠でもコンでもよかったのだ。
 厩には馬丁たちがいた。羌族出身の彼らは芻と呼ばれ、その牧畜の才から周では重宝されていた。
 彼らもまた「おかえりなさい」と名前を温かく迎え入れた。けれどなんだか名前は座りの悪さを覚えていた。厩の中は少しも変わっていないのに。見知らぬところに迷い込んだような不安が足許に広がっていた。
 だから名前は自身の愛馬に歩み寄った。そうしてからその毛並みをそっと撫でた。
 名前の駿馬は青毛であった。黒々とした体躯は勇猛な性格を体現していて、しかしこの時の彼は愛らしく名前に鼻先を擦り付けた。
 ーー馬にまで心配をかけるとは。
 名前は苦笑し、首を叩いた。もう大丈夫だ、そう言って。
 慰めを与えられるべきは名前じゃない。それがきっとこの居心地の悪さの原因なのだろう。
 悲しみも寂しさも未だ降りやまない。降り積もり、積み重なっていく。けれど、それを受け入れるしかないことを名前は知っているし、彼らもそれを望んでいるのだろうとわかっていた。
 見るべきは過去ではない。前を見て、歩みを進めなければ。
 ーーそう、わかっているのだけど。

「こういうのは、結構つらいな……」

 厩には何頭もの馬がいた。名前の馬も、父の馬も、ーー黄家の乗っていた馬も、今は城に集められていた。
 その中には当然、乗り手を喪った馬もいる。そう、黄飛虎の愛馬も。
 彼と相性のよかった青鹿毛の馬は、主を探すように視線をさ迷わせていた。その姿に、胸が詰まる。あまりに大きな存在を喪ったのだと痛感させられる。

「……天化どの、」

 だから彼のーー彼らの痛みは名前には推し量ることしかできない。
 天化は厩の裏手にいた。ぼうと空を見上げ、煙草を吹かしていた。
 物思いに沈む瞳。そこには悲しみだけではない何かが沈んでいるように思われた。
 だから名前は彼を見つけても躊躇いがちにその名を呼ぶことしかできなかった。歯痒くとも、そうせざるを得なかった。
 天化はその一言で目を上げた。名前、そう呼ぶ声もどこか遠い。上の空だと如実に伝わってくる。
 けれどその瞳に拒絶の色は見受けられなかった。それ以前に、彼からは意志というものが感じ取れなかった。以前は輝いていた光が今は重く翳っているようだった。

「……昨夜はよく眠れましたか、」

「いや、あんまし。天祥は泣き疲れて熟睡してたけど」

 そっと問いかけると、天化は苦く笑った。それは痛々しささえ感じるもので。
 すぐ隣に立つ名前まで伝播し、胸を苦しめた。
 でも彼らの苦しみは名前の比ではない。特に幼い天祥にとって目の前で起きた父の死は受け入れがたいものだろう。
 少年が心に負った傷を思い、名前は唇を噛んだ。
 いつだって死は悲しみを伴う。その死は平等で、そこに差など存在しない。とはいえ偉大すぎる人を喪うというのはやはり堪える。特に、彼が頑健で剛勇であったからこそ。

「……仕方のないことです」

 名前にはうまい慰めの言葉が見つからなかった。たぶん天化もそれは求めていなかったろう。
 そう思ったから、名前は殊更明るく続けた。笑みすら浮かべて彼を見上げた。

「わたしの父など報せを受けてからずっと酒浸りですもの。ご家族ならばなおさらです」

「あぁ、でも……」

 天化は言い淀んだ。
 伏せられた目許には濃い影が落ちている。黒々とした深い影が。
 それは以前の彼と同じようで、けれどそれよりもずっとその面立ちは頼りなげであった。灯りを失った迷い子のように。頼りなげに天化は瞳を揺らした。
 だから名前は、以前と同じようにーー以前よりも深く、踏み込んだ。手を伸ばし、彼の背中に触れた。子供のような彼を抱き締め、静かに囁いた。

「……少しだけ、肩を貸してあげます。あなたがまた歩けるよう」

 拒まれてもいいと思った。怒られたとしても、嫌われたとしても。それでも彼の助けとなる可能性があるのなら、と。名前はそれだけを考え、言葉を紡いだ。
 天化はハッと息を呑んだようだった。だがその顔は名前からは見えない。ただ彼の体から強ばりがほどけていくのだけはわかった。

「戦争になれば人は死ぬ……そんなのわかってた。……いや、わかってるつもりだったんだ」

 数秒か、数分か。間を置いて、彼はぽつりぽつりと呟いた。
 その声音は悲しいほど凪いでいた。今日の空のように。静かで、穏やかで、そしてそれ故に深い悲しみに彩られていた。

「けど、親父だけは……親父だけは特別だと思ってた。親父が死ぬなんて、念頭になかったんだ」

「バカだな」と笑う彼に、名前は首を振る。「いいえ、」と。
 だってーー

「……わたしも、そうでした」

 名前は目を閉じた。
 そうすればいつでも甦った。数年前のこと。周という国が興る前のこと。西岐がただの邑であった頃のこと。
 ーー西伯侯姫昌が、囚われの身から解放された日のことが。

「わたしも、信じられなかった。伯邑考さまが亡くなったと聞かされたとき。その後もずっと、生きているんじゃないかって……今でも思ってしまいます」

 偉大な人だった。尊敬していた。名前の憧れだった。ずっとずっと、その背を追いかけていた。
 それは名前にとって導も同じで。彼を喪ったと聞かされた時、名前は暗闇に放り出されたような気さえした。灯りすらない、本当の闇に。

「……なら、名前はどうして今も歩けるんだ?」

「それは……」

 名前は少し考え、それから口を開いた。

「遺志、でしょうか」

「遺志……」

 繰り返す天化から身を離し、名前はその目を真っ直ぐに見つめた。
 彼の瞳は未だ悲しみに濡れている。けれどその奥でほんの少し輝くものを見つけることができた。その輝きに向けて、名前は語った。

「姫昌さまも伯邑考さまも、民の安寧を願っておりました。そして今は姫発さまが。あの方がーーわたしの主君が、血を流しながら戦っておられるのです。臣下のわたしが立ち止まるわけにはいかぬでしょう?」

「……そっか」

 天化は一度目を閉じた。
 そして次に開いた時、そこには以前とは違う、けれど確かな輝きが宿っていた。

「……ありがとな、名前」

「いえ……。わたしは、お役に立てたのでしょうか?」

「ばっちしな」

 ニッと笑う口許は見慣れたもので。
 名前は胸を撫で下ろした。迷惑にならなかったならよかった。名前の些細な行動でも、役に立てたのなら。
 ーーこれ以上の喜びはないだろう。

「お陰で俺っちにも答えが見つかった」

「答え?」

「ああ、」

 天化は頷いたけれど、答えを教えてくれることはなかった。
 ただ「大丈夫さ」と言う彼のことを名前は信じた。何より、彼の言葉だったから。







ーーーーーーーーーーーーーーー
庠=羊小屋
コン=豚小屋