太公望×(姉属性+小悪魔)姫昌の娘5


 喉に渇きを覚えて、太公望は目を覚ました。
 ほの白い光を纏っている窓紗。遠くから聞こえる鳥の声。いつの間にか夜は明け、室内には朝靄がかかっていた。
 いったい何をしていたのだったか。霞がかった頭を押さえ、起き上がろうとした時だった。

「……ん、」

 声がした。自分のものではない、少女の甘やかな声が、すぐ隣から。

「……っ、」

 咄嗟に視線を落とし、すぐにそうしたことを後悔した。
 太公望の隣には名前がいた。未だ眠りから覚めない少女が。
 朝日を帯びた絹糸のような金茶の髪。夜着の頼りない胸元から覗く白い肌。淡く色づいた唇は歌うように花開き、しどけない寝姿には毒にも似た艶があった。
 彼女はむずがるような声を上げ、身動いだ。けれどその瞼が開くことはなく、ただ温もりを追いかけるかのように太公望にすり寄った。お陰で距離が一層縮まり、香りが鼻孔をふと掠めた。焚き染めた香とは違う、少女のそれ。
 その甘さにも、目眩がする。

「……はぁ、」

 太公望は溜め息を吐いた。深く息を吐き、そろそろと身を起こし、距離をとる。
 こうでもしないと体が勝手に動いてしまいそうだった。やはり彼女は毒に違いない。できるだけ視線を逸らしながら、脱ぎ捨てられた上着を少女の体にかけてやった。彼女の清純な白が守れるようにと。
 そうしてから、ようやく冴えてきた頭を回転させた。
 酒器が散乱した室内。その床に転がったままの名前と姫発。これまでは気にも留まらなかったが、姫発はなぜか服を脱ぎ散らかし、すっかり開放的な格好をしている。
 どうしてこんなことになったのか。
 そんなの、室内の惨状を見れば明らかだった。
 昨夜太公望の部屋を訪れた名前は鴟キョウユウに{emj_ip_0794}に{emj_ip_0794}や勺、觚を持ってきていた。曰く、酒でも飲まなきゃやってられない、と。

「ちゃんとキミのことを思って桃のお酒にしてきたよ」

 にっと笑って、名前は觚を太公望に渡した。
 そう言われれば断る理由などなく。

「よし、わしらだけで酒宴といこうか。だが姫発はダメだぞ?おぬしはその原稿を暗記してからだ」

「なんだよソレ!?ずりーぞ!!」

「当たり前じゃないの。これはご褒美よ、発ちゃんがちゃあんとできたら飲ませてあげる」

 太公望の言葉に名前は嬉々として乗ってきた。姫発に発破をかけるためーーだけではないのはその目を見ればわかった。
 悪戯っぽい光を瞬かせる名前と視線を交わし、太公望は酒を注いだ。姫発から向けられる不平を無視して。

「くそぅ……。しゃあねぇ、さっさと覚えてやるからな、待ってろよ」

「その意気よ、発ちゃん。大丈夫、やればできるって」

 歳が離れているわけでもないのに、名前はいつだって大人ぶる。この時も彼女は慈愛に満ちた手で姫発の頭を撫でる。姫発も姫発でなんの違和感も持たず、それを大人しく受け入れていた。彼の性格を考えればらしくない、むしろ反発しそうなくらいだが、彼ら姉弟は出会った頃から"こう"だった。
 はて、姉弟とはこういうものなのかーー?
 太公望には覚えがないため比較ができない。が、彼らの距離がどうにも近く思えて時折戸惑うことがあった。先刻の発言を鑑みてもやたらと接触が多いようだし……いや、血が繋がっているのだから当然なのかもしれないが。
 そんなもやもやした感情すらも飲み干すように、太公望は酒を呷った。すると微かな刺激と爽やかな清涼感が喉を抜けていく。

「お、いい飲みっぷりだね〜、意外……だけどよかった、無駄にならなくて」

 心底安堵した。そういった風に彼女は目尻を和らげた。それは柔らかく、彼女が姫発を見るのと同じような色をしていて。
 薄らいだはずの霧が再び心に広がっていくのがわかった。
 そのせいでらしくもなく酒を進めてしまった。そこに課題を終えた姫発まで加わり……

「結果がこれか……」

 浅い眠りからの覚醒は普段よりも体に気だるさを残していた。思考も鈍り、いつもなら気にせずに済むことすらも目に留まってしまう。
 そういえば誘った時の彼女の態度は不自然だった。もしかすると彼女はこうなることを予見していたのか。夜の語らいといえば酒が欠かせない。だがそうなると"こう"なってしまう。ただの友人ではいられなくなってしまう。その可能性を予見してーーけれど彼女は太公望を訪った。きっと、太公望を信じて。

「……ならばそれに応えねば」

 上着をかけてやったのは英断だった。そう自画自賛したところで、むくりと人影が起き上がった。
 しかしそれは名前ではなく。

「なんだ……?もう朝か……?」

 あちこち跳ねた髪を掻きながら、姫発は大きな欠伸をした。「さみぃ」と呟き、そうしてからようやく自分が裸であることに気づいたらしい。

「うわっ、なんで俺脱いでんだ?」

「知らんわ」

 本当は覚えていた。彼が暑いと騒ぎ、ひとりでに衣を脱ぎ出すのも。それを笑いながら名前が見ていたのも。
 けれど太公望は冷ややかに答えた。そこで姫発も太公望の存在に気づいたらしい。目を丸くし、記憶を辿り、「あぁー……」と手を叩いた。

「はえーな、太公望。やっぱじーさんだから早起きなのか?」

「失礼なやつだのう……」

「ははっ、わりぃわりぃ」

 笑いながら姫発はやっと脱ぎ散らかした服を集め始めた。まったく、武王が酒に呑まれるようでは示しがつかない。
 呆れる太公望をよそに、姫発はのんびりと言う。

「しかしさすがの名前も太公望の前じゃ脱がなかったんだな」

「名前をおぬしと一緒にするでないわ」

 一応は女性なのだから、と。他意はないことを強調して太公望が一蹴すると、なぜか姫発は目を瞬かせた。それは驚きを表現していて。

「……なんだ?」

「や、太公望でも知らねーことあるんだな、と」

 姫発は笑いを堪えながら、名前を親指で指した。
 彼女はまだ健やかな寝息を立てていた。それはひどくいたいけであるのに、抜けるように白い肌の下から滲む血管の赤が、誘うような色香を湛えていた。

「こいつ、身内だけだととことん気が抜けるんだよな。夏なんか基本寝る時裸族だし」

「……は?」

 太公望が知る名前はいつも余裕があった。一歩引いたところから皆を見ていて、姉らしい落ち着きを持っていた。
 しかし改めて名前の寝顔を見、そのあどけなさと姫発の発言を噛みしめた。
 確かに今の彼女は隙だらけだ。それでも俄には信じがたい。「嘘だろう」と思わず溢してしまうのも致し方のないことだった。

「嘘じゃねーって。見てろよ、」

 姫発はそう言い残し、名前の肩を揺さぶった。
 それは飲酒により浅くなった睡眠から引き起こすには十分な刺激で。

「ん〜……、なに……?」

 太公望が止める間もなく。名前は目を擦り、小さく欠伸を洩らした。微睡んだままの瞳は鈍く、姫発だけを捉えていた。

「どうしたの、発ちゃん……。お姉ちゃんを起こしに来てくれたの……?」

「そーだよ、だからさっさとシャキッとしてくれ。今日は愛する弟の晴れ舞台だからな、とびっきり着飾ってくるんだぞ」

「ん……、わかった」

 そう答えたくせ、名前はまた目を閉じてしまう。かくりと首を落とし、腰に手を回して支えてくれている姫発にそのまま寄りかかった。
 その姿は心から安心しきったもので。ーー太公望には見せてはくれないもので。

「じゃあ俺は名前を送り届けてくるな、このまま起きたら大騒ぎされそうだし」

「ああ……」

 じゃあな、と手を振って去っていく姫発をただ見送ることしかできなかった。






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鴟キョウ/ユウ=フクロウの紋様が入った、持ち手のついた酒容器