楊ゼン×原作沿い武官IF


原作沿いと同一設定の主人公。
原作沿いとは違い、仙界大戦後に楊ゼンと結ばれた設定のIF。
時間軸は殷へ進軍中の時。



 蒸し暑い夏の夜。名前は涼を求めて宿営地を離れた。
 暫く散歩でもして眠気を待とう。理由も原因もそんな些細なことで、つまり名前は気を抜いていた。

「おや、名前くん」

 奇遇だねと笑うその人は、芙蓉の花も恥じらうほどに美しかった。慣れたと思っていた名前ですら息を呑むくらいに。
 その様子がよほどおかしかったのか。
 その人ーー楊ゼンは、くすりと笑みを溢し、「よかったら」と自身の隣を指し示した。

「では、お言葉に甘えて……」

 二人がいたのはぽかりと浮かんだ池畔だった。青々と繁る木々を背に、射し込む清新な月光とそれに連なる池の水面を眺めていた。
 立ち上る緑と麦の薫りは澄み渡り、名前はそっと息をついた。

「……静かだね」

「ええ、本当に……」

 首肯しながら、名前はその心地よさに目を細めた。
 辺りはしんと静まり返り、言葉数も少ない。静寂。そればかりが広がるのだけれど、決して据わりの悪さと同義ではなかった。……不思議なことに。
 それは相手が楊ゼンだからであろう。
 そう思いながら、名前はそっと隣を窺った。

「ん?」

「っ、いえ……」

 そっと、密やかに。
 そのつもりだったのだけれど、やはり楊ゼンには敵わない。瞬時に見抜かれ、二人の視線は交わった。
 深淵すら見透す目。瞳。不意のこと、名前は思わず目を逸らしてしまったのだが。

「ふふっ……」

 失礼だったか、と後悔する名前を裏切り、楊ゼンは笑った。ひどく楽しそうに、軽やかに。
 それを見れば誰にでもーー名前にだってわかる。面白がられていると。揶揄われているのだと理解し、名前は口を曲げた。

「笑うなんてひどいわ」

 だって、しようがないでしょう?名前は頬を膨らませ、指折り数えた。
 楊ゼンの美しいところ。銀漢を流したかのような髪。星を散りばめたカワセミの瞳。大理石の如く清んだ膚。聴く者の心を慰撫する穏やかな声。
 彼を形づくる何もかもが美しかった。神の宿る美とはこれ以外他にないと、そう思わざるを得ないほど。すべてが眩しく、しかし焦がれずにはいられなかった。
 彼は月神でありながら、太陽の写し身でもあるのだ。名前は半ば本気でそう思っていた。
 だのに、それすら楊ゼンを楽しませるものだったらしい。

「それは……言い過ぎだよ」

 くつくつと肩を震わせて。楊ゼンは笑いを殺しながら目許を拭った。まったく、名前は真剣だというのに。

「言い過ぎなんかじゃないわ。むしろ言い足りないくらい……きっと夜明けまでだって語れるでしょうに」

「それも楽しそうだけど……遠慮しとくよ。僕がみんなに非難されそうだ」

 唇を尖らせた名前。その頬を悪戯につついて、そうしながら楊ゼンは「でも、よかった」とこぼした。

「よかった?」

「あぁ。だって……」

 一拍。楊ゼンは目を細め、それから。

「要するに君は僕の顔が好きってことだろう?」

 だから、よかった。
 そう言った楊ゼンの目。翡翠は僅かに潤み、その光に照らされた名前ですら溶けてしまいそうだと思った。

「……それだけじゃ、ありませんけど」

 ようやっと。
 熱に浮かされながらそれだけは言葉にした。それだけは言っておかなければと思った。そうでなければまるで名前が彼の容貌ばかりを好んでいるみたいだったからーー。
 だから名前は気恥ずかしく思いながらも続けた。

「あなたの気高き心も皆を思いやる優しさも……わたしを導いてくださる手の力強さも。……慕わしく、思っておりますから」

 たとえば。
 出会ったばかりの名前を気遣ってくれたことだとか。思い悩む名前に然り気無く助言をしてくれたことだとか。そうした細やかな行動に名前はどれだけ救われてきただろう。
 喪いがたいと思ったのは大戦の最中だった。喪われるかもしれない。そう思った時、足が竦んだ。暗闇に独り放り出されたような心地だった。それで気づいた。気づくことができた。かけがえのない存在であることに。何より彼を想っていることに。
 気づけた今。喪われる可能性を知った今、名前に躊躇いはない。

「要するに、全部引っくるめて楊ゼンさんが好きということです」

 伝えたいことは今伝えなければ。
 思ったから、名前は手を重ねた。自身の頬に添えられたそれに。彼の温もりに手を重ね、頬を寄せた。
 楊ゼンは、らしくもなくされるがままだった。名前がそうしても、見開いたままの目は息を呑んでいた。
 けれど名前が「楊ゼンさん?」と不安に声を揺らすと。

「……君はよほど不意打ちが得意らしい」

 楊ゼンは溜め息混じりにそう言うと、目許を緩めた。
 ありがとう。そう言う声が泣きそうなことには触れなかった。名前も、楊ゼンも。それは二人にとって必要なことではなかったし、今この時さえあればいいと思った。二人にとって、過去はもはや過去でしかなかった。

「お礼に僕も君の好きなところを指折り数えてあげようか」

「い、いえ……そういうのはちょっと……」

「はは、遠慮しなくていいのに」

「遠慮ではなく……って楊ゼンさん、やっぱり揶揄ってるでしょう!?」

 胸を叩いて抗議する名前を、楊ゼンは笑って交わしてしまう。
 けれどだからといって名前に不満はない。むしろその逆。怒った風を装っていても、溢れ出る笑みは隠しようがなく。

「……好きだよ、僕も。全部引っくるめて、名前のことが」

 挙げた手は絡め取られ、丸腰の身は距離を失い。そうした後で、楊ゼンは名前の耳許に唇を寄せた。
 囁き。掠れた音色と微かな熱。それだけで目眩がした。夏の暑さを不快に思っていたはずなのに、彼のもたらす熱はいとおしいばかりで。

「……あなたこそ、不意打ちがお上手で」

「いやいや、君には敵わないよ」

「嘘ばっかり……」

 降参だ。どう足掻いたって勝てやしない。むしろ喜んで白旗を揚げよう。
 名前は抵抗の色なく、彼の胸に身を預けた。鼓動の音も交わる熱も、心地がいい。
 ーーそう思っていたのが通じたのか。

「ねぇ、名前」

「はい?」

「これからきたる白露の夜も、……冬至の夜も、君と共に在りたいと思うのだけど」

 どうだろうか、と。
 そう訊ねる彼の瞳は少しだけ揺れていて、名前はなんだかおかしくなった。
 月神であり、太陽の写し身でもあるというのに。そんな彼が不安に思うことなどないはずだろうに。
 だというのに些細なことで躊躇いを見せる彼がおかしくてーーいとおしかった。

「……はい」

 名前は手を伸ばした。両頬を包み、額を重ねた。その身がするりと喪われることのないよう。名前は真っ直ぐに楊ゼンを見た。

「秋期の逢瀬、その夜でなくともーーわたしはあなたと共に」

 たとえ天の川がかからずとも、この身はあなたの元に。
 誓うと、彼は顔を綻ばせた。

「……よかった」

 子供のように無垢な笑み。微笑に、どうしようもなく胸が切なくなる。甘やかに痛み、触れたくて仕方がなくなる。今さら手放せやしないと痛感する。

「でも、いいんですか。きっとわたし鬱陶しいくらいに言いますよ。飽きるほど楊ゼンさんを称賛するし、好きって言いますから」

「いいよ、僕だって君がもう降参だって言うくらいに伝えるから」

 楽しみだ、と彼は目を馳せた。
 どちらが先に折れるか。そんな未来の約束にも心が踊る。
 この先ーー最も長き夜、その果てでも彼と共に在るのだと。
 疑いようのない未来に、名前もまた微笑んだ。






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お題箱より。
リクエストありがとうございました!

後半に出てきた、
『白露〜』は白居易の『涼夜おもうことあり』から。
『冬至の夜〜』も同じく白居易の『冬至の夜、湘霊をおもう』より。
『銀漢〜』と『秋期〜』も白居易の『七夕』からです。
『白露〜』は『白露の頃は語り合うのにふさわしく、時の流れはゆるやかで清々しい空気が流れている』という詩なので。
『冬至の夜』に関しては最も長い夜なので(共に過ごしたい)って意味で引用させていただきました。