武官、友達を作る


 軍の実務を任されている楊ゼンには、軍師太公望と同じ等級の宮が割り当てられていた。
 西岐城の中でも王族に次いで位の高い宮殿。それは高台式となっており、風格の高さが楊ゼンにはよく似合っていた。おまけに防湿防水効果等機能面でも優れ、防御にも適しているというのだから、どれだけ周が彼を厚遇しているのかが伺い知れよう。
 そんな楊ゼンの宮、その中央太室は名前にとっても馴染み深い。何せ軍に関する事柄はすべて彼へと集約することになっているのだ。周へ帰還して以来、自室よりも楊ゼンの太室で過ごす時間の方が多くなるのも当たり前と言えば当たり前だった。

「戦車三百輛、虎臣三千、歩兵およそ四万五千、用意が整いました。いつでも進軍可能です」

 部下から報告を受け、出来上がったばかりの戦車を確認した後。名前はその足で楊ゼンの元へと赴いた。
 ところ狭しと書物や巻物が置かれた太室。風を避け、密室となった室内には墨と紙の古びた匂いが満ちていた。
 その空気は土埃とは真逆といっていい。けれど名前は嫌いではなかった。むしろその香りには心を落ち着かせる作用があるとさえ思っていた。
 その部屋の主もまた、冷静な面持ちで名前からの報告に耳を傾けていた。
 明晰な頭脳でいったい何を考えているのか。彼は静かに口を開いた。

「三百……性能に関しては?」

「測定済み、いずれも基準通りでした。それからご指摘いただいた車輪への改良もつつがなく……正しく円形、重さも等しくできております」

 戦の規模はより大きくなるであろう。これからは殷の本隊とぶつかることになるのだから。
 そう考え、楊ゼンは戦車部隊を注視した。広大な平原地帯での戦闘。そうなれば戦車が主要な兵種になるであろう、と。
 そこで戦車への改良を彼は提案した。寸法の基準をより厳しいものとし、車輪には安定感と速度を求めた。正しく円形か、車輪は真っ直ぐ垂直か、両輪の重さは等しいか……。お陰で以前よりも滑らかな走りを可能とし、兵士の士気も向上した。
 そう話すと、楊ゼンはそっと表情を緩めた。

「ご苦労様、よくやってくれたね」

 その微笑は神々しいまでで。これほどの褒美が与えられるのならば、女官たちまでこぞって戦いに赴きたがるであろう。そう思わせるほどの笑みには、つい名前まで見惚れてしまった。

「勿体ないお言葉……ですが職人に聞かせたら大層喜ぶでしょう」

 なんといっても憧れの仙道お墨付きだ。
 これは絶対に耳に入れてやらねば。使命感に駆られる名前を「大袈裟だよ」とさすがに笑い、それから楊ゼンは言葉を続けた。

「武器の方はどうなってる?」

「そちらもご指示通りに。矛は長く、鏃は青銅製のものに変更となりました。戦車が主になるということで数に不安は残りますが……」

「現状できうる限りの用意ができたならいいんだ」

 恐らく殷にはそれほどの戦力は残っていないだろう。殷の太師聞仲が亡くなったことも響き、兵士の士気は低下している。王への忠誠心も、また。
 けれど油断は禁物だ。裏にはまだ妲己たち三姉妹が残っている。何を企んでいるかわからないが、静かなことが逆に気味の悪さを感じさせた。
 とはいえ四六時中気を張っていては体がもたない。

「楊ゼンどの、少し休まれては?」

 楊ゼンが息を吐いたところで、一通りの報告を終えた名前はおずおずと提案をした。
 楊ゼンの顔に疲れは見えない。美貌には一切の陰りも見えず、涼やかな印象を保っている。
 そうは言っても彼だって生きた人間なのだ。疲れもするし睡眠だってとる。……俄には信じがたいが。
 しかしこのところーー仙界大戦が終わり、周に帰った後、楊ゼンは寝る間も惜しんで働いている様子だった。諸侯への連絡やら物資の管理やら。その働きぶりは軍師太公望の存在が霞むほどだ。名前が代わりを買ってでなければ、彼は自分一人でそれらの仕事をこなしていたろう。
 それに何より、名前には思い出がある。玉鼎真人ーー楊ゼンの師との会話が。彼は弟子のことを案じていた。名前の話を聞き、安堵していた。そんな彼のことを思えば、名前は口を出さずにはいられなかった。たとえ余計なお世話であろうと。
 そう理解していたから、楊ゼンがあっさり「そうですね」と受け入れたのには驚いた。驚いたけれど、それはほんの些細なことに過ぎなかった。

「よければあなたもご一緒にいかがですか?」

 そう楊ゼンが言い出したことに比べれば。

「まさかお誘いいただけるとは思いませんでした」

 前堂を出、回廊を渡り、後庭を通り過ぎ。その先に楊ゼンの寝宮があった。彼の居住空間、つまりは私室である。恐れ多い、と名前が及び腰になるのも当然だろう。
 楊ゼンの私室は彼の容貌とは異なり、装飾の一切が省かれていた。
 とはいえその簡素さが逆に彼の整った面立ちを際立たせているのだから、緊張感は拭えない。きっと女官たちにあることないこと噂されるだろう。考えるだけで胃が痛くなる。
 しかし厚意を断ることも、せっかくの機会を逃すことも名前にはできず。
 気持ちを切り替え、名前は茶器の準備をした。

「僕も乗ってもらえるとは思わなかったよ」

 湯気の向こうで、ふと楊ゼンは笑む。太室で見せたものとは少し違うそれ。どう違うのかと具体的には説明しづらいが、なんとなく名前はこちらの方がささやかで、どこか気の抜けたもののように思えた。
 名前も一口茶に口をつけ、それから「機を伺っていたのです」と切り出した。

「機?何か話したいことでも?」

 珍しい。そう目を丸くされ、名前は思わず笑った。確かに。楊ゼンとは仕事上付き合いが長いが、名前が自分から彼に踏み込むことは少なかった。それは名前の性格上の問題でもあったし、楊ゼンの持つ雰囲気がそれに拍車をかけていた。
 要するに遠慮していたのだ。名前にとって彼は天上の人で、憧れよりも遠いものであったから。
 ーーけれど、今は。

「……楊ゼンどのにお願いがあるのです」

「お願い?」

「……はい、」

 名前は一度目を閉じた。
 瞼の裏では鮮やかに甦る。よかったと綻ぶ口許も、慈愛に緩む瞳も。彼を想う心は、確かに名前の中に残っていた。その時の誓いもまた、同じように。

「わたしと、お友だちになってください」

 そして次に目を開けた時、名前ははっきりと楊ゼンを見据えることができた。真っ直ぐ、目を逸らすことなく。
 名前は手を差し出すことができた。

「恐れ多いこととは自覚しております。けれどわたしは約束しました。玉鼎真人さま……あなたの師と」

「師匠と……?」

 思いがけぬ名に、楊ゼンの目が揺れる。玉鼎真人。彼の死は記憶に新しい。平静を保っていても、楊ゼンの心が傷つけられたのは事実だ。きっと悲しみもまだその中に残っているだろう。
 それでも名前はその名を口にした。そうすることで、彼の想いに報いたかった。誓いを果たしたかった。

「わたしが『楊ゼンどのと友になれるならこれほど喜ばしいことはない』と言った時、玉鼎さまは我が事のように喜んでくださいました。そしてその言葉を楊ゼンどのに伝えるように、と。そうした方がいいとわたしを導いてくださいました」

 誰だって思いをすべて詳らかにすることはない。名前も口にするつもりはなかった。するほどのことではないと思っていた。
 しかし玉鼎真人の言葉を聞き、思い直した。伝えるべきこと、伝えなければならないこと。それは本当に正しいことなのかと。名前の尺度で取捨選択されたそれは正しかったのか、と。
 玉鼎真人の口ぶり、楊ゼンを案じる様子。それらを知ったことで、名前は思い直した。これは言うべきことだ。伝えなくてはならない。きっと、玉鼎真人の想いも含めて。
 楊ゼンに知っておいてほしいと、何より名前が望んだ。ただ己の心のままに。身勝手であろうと我儘であろうと、それでもと望んだ。

「楊ゼンどの、どうかわたしの友になってはいただけませんか?」

 沈黙はどれほどの時間だったか。
 決して長い時間ではなかった。けれど短くもなかった。湯気が薄れるほど遠く、けれど熱が冷めるには早く。

「……まいったな」

 楊ゼンは、苦笑した。

「こういうのらしくない……とは思うんだ。柄じゃないし、性にも合わない」

 けど、と彼は名前を見た。
 視線が交わる。清涼な、しかし雨の気配のする瞳と。濡れたような眼差しと。名前は見つめ合い、微笑を交わした。

「……嬉しいよ。師匠の想いを届けてくれたことも。……そう、言ってくれることも」

 ありがとう。
 そう言った彼は、名前の手を握った。握り返されたそれは温かく、名前と同じ血の通った人のものだった。彼は天上の神ではなく、ただひとりの人として名前の前に座っていた。
 だから彼の口からその生い立ちを聞かされても、名前の想いが変わることはなかった。

「わたしもお礼を言わなきゃなりませんね」

「どうして?」

 不思議そうに首を傾げる彼がおかしくて、名前は「だって、」と笑みこぼす口許を押さえた。
 そう、おかしかった。まるで悪いことのように語る彼が。生い立ちを隠してきたことに後ろめたさを覚える彼が。
 名前よりもよほど賢く、人のことを理解しているのに、こんな単純なことに気づきもしないなんて、と。

「楊ゼンどのが嘘を吐いてくださらなければ、きっと"今"もなかったでしょう?お恥ずかしいことですが、わたしのような小心者ではあなたに"通天教主さまのご子息"という付加価値までついてしまったら……恐れ多すぎて、」

「……そこ?」

 呆れたように彼は言い、それから「でも名前くんらしいね」と笑った。
 それは先刻見たものよりもずっと穏やかで、柔らかくてーー神さまのような荘厳さはなかったけれど、それとはまた違う美しさがあった。