武官、寂しさを感じる
探し人の背中を捉え、名前の口はひとりでにその名を叫んでいた。
「太公望どの!」
「おお、名前か」
振り返った彼に、いつかのような翳りはない。纏うのは、出会った頃と変わらぬ鷹揚で悠然とした雰囲気。
「どうしたのだ、そんなに急いで……慌てずともわしはどこにもいかんぞ?」
けれどほんの少しだけ緩んだ空気を滲ませて、太公望はへらりと笑った。その言葉に、表情に、名前は口を尖らせる。
ーー嘘つき。そう、冗談めかして詰りながら。
「太公望どのはいつもそう。いつもいつもお一人で決めてしまわれる……」
二太子との戦いの時も。仙界大戦の折にも。いつだって彼はひとりで判断を下す。誰に何を言うこともなく。弱音すらそうそう見せず。道化を気取りながら、ひとり道を選ぶ。
それが上に立つ者の性といえばそれまでだ。けれどそう簡単に片付けてしまうのは寂しいと思った。寂しいと、そう身勝手にも思ってしまった。
「なんだ、耳が早いな。姫発から聞いたのか?」
「ええ、」
……だからといって、名前にはどうすることもできないのだけれど。
「ですからこちらを、と思いまして」
それでも何かしらはーーたとえそれが独りよがりな行為だとしてもーー彼の役に立ちたいと思ってしまった。思ってしまったから、こうして名前は彼の背を探していた。
「これは?」
「紹介状です。……わたしにはこれくらいのことしかできませんから」
名前が太公望に差し出したのはひとつの書状だった。そこには武王や名前の父の名が連ねられ、朱印が押されている。
目を瞬かせる太公望に、名前は眉を下げた。力になりたいと思うのに、名前にはその術がない。それが歯がゆく、口惜しい。そのために名前の頬には恥じらいの色が滲んでいた。
「これがあれば太公望どのの手を煩わせることなく他の邑の支援が受けられるでしょう。遊牧民にも、多少は」
「おお!」
身を縮める名前とは反対に、太公望は目を輝かせる。名前がたじろぐほど、大袈裟に。
「いやぁありがたいのう!」そう言って名前の手を握った彼は、これで桃に餓えずに済むと笑った。
それを見て、名前も内心胸を撫で下ろす。……よかった、受け取ってもらうことができて。胸を撫で下ろし、安堵に強ばっていた肩から力が抜けていった。
「それからこちらも。今日の昼食にも食べてください」
だから安心して、もうひとつの荷物も渡すことができた。中身は携帯食料で、麦粉を焼いた爐餅が包まれている。日持ちはしないが、腹の足しくらいにはなるだろう。
名前にとってはその程度の考えだったのだけれど、これにも太公望はわかりやすく喜びを示して見せた。それは気恥ずかしく、名前には勿体ないとすら思えるものだったのだけれど。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
今の名前には素直に受け入れることができた。それがきっと彼にとっても良いことなのだろうと、そう思うことができた。
「…………」
沈黙が落ち、回廊には涼やかな風が吹く。丘陵地にある西岐城は都の中央に位置し、四方に伸びる大道にちらほらと出てくる人の影まで見渡すことができた。宮城の左には宗廟があり、右には社稷壇が建てられ、その上には明けゆく空が広がっている。
黎明の空は蒼には遠く、けれど白色よりはずっと澄んでいた。そしてそんな澄みわたる朝色よりも果てのない瞳で、太公望は城下を見下ろしていた。
ーーその姿は、いつの日か見たものに似ていて。
「……寂しく、なりますね」
気づけば、そう溢していた。溢した言葉の頼りなさに、名前は自分のことであるのに驚いていた。でもそう言ってしまったからーーこれが本心であることに違いない。
寂しい。
ひどく単純で、明快で、子供のような感情であるけれど、それは紛れもなく名前の思いだった。太公望が都を発つと聞いた時、一番に思ったのがこれだった。先々への不安や前途への憂慮よりも。それよりも何より、名前は寂しいと思った。この先の戦いで、最後まで彼と共に在れないかもしれない、と。
人の争いにまで彼を関わらせることに申し訳なさを感じつつも、それでも名前は同じ心でそう思ってしまったのだった。
「名前……、」
それに、太公望はほんの少し戸惑ったような声を出した。彼、らしくもなく。
けれどそれを瞬きのうちに消して、彼はにやりと悪戯っぽい笑みを顔に描いた。
「何を言っておるのだ、わしなどおらずとも……ほれ、楊ゼンとでも仲良くしてればよかろう」
「太公望どのまでそのようなことを……」
数日前から女官たちに噂され、つい昨日にはとうとう父の耳にも入り、家族会議にまで発展させられた話題に、名前の表情は思わず弱ったものになる。
しかしそれも太公望なりの気遣いであると察しがついたから、それ以上の文句は言えない。
「……太公望どの、」
遠くで鳥が鳴き、早朝の喧騒が足音を立ててくる。
変わりゆく空気の色に背中を押され、名前は太公望に手を伸ばしていた。
名前よりも少しだけ高い背丈。微かに立ち上る芳しい香の匂い。抱き締めた体は細く、青年というよりも少年のそれに近かった。
けれどこの体にのし掛かるものの大きさを名前は知っている。刻まれた傷痕も。それでも歩き続ける強さを。肩代わりすることなどできないと知っていて、ーー知っているからこそ、名前は彼に触れた。
そうすることで単に安心したかったのかもしれない。彼が今地に足をつけていることを実感したかったのかもしれない。或いは、彼に自身を必要とする者がいるのだと知ってほしかったのかも。
ただ確かなのは、名前が今こうしたいと望んだ事実だけだった。
「必ず、帰ってきてください。無茶も無理もしないで……どうか無事に、」
ーー生きて、帰ってきてほしい。
そんな願いは空気に溶けた。名前には最後まで口にすることができなかった。音にして、現実になるのが怖かった。
太公望の旅の目的は聞き及んでいる。太上老君、その人を探す旅であると。そこに肉体的な危険はないであろうことも。
それでも願わずにはいられなかった。名前は震える手で彼の背を抱き、掠れる声を溢した。
「……大袈裟だ」
そんな名前を彼は笑う。呆れや困惑はちらりとも見せずに。ただ穏やかに名前へと笑いかける。出会った頃と同じ瞳で。出会った頃よりもずっと近い距離で。
兄のような、或いは父親のような。それでいてそのどちらとも違う色合いの微笑は彼にしかないものだ。道士でも軍師でもない、ただひとりの人である彼にしか描けないものだ。
「ですが太公望どのはいつもふわりふわりとしているではありませんか。目を離したらどこかに行ってしまいそうで……気が気ではないのです」
「なんだそれは」
微笑を浮かべた彼の手が名前の髪を梳く。宥めるように、ゆっくりと。そうされて、名前は彼の手が存外大きいことを知った。
「大丈夫だ、大事の前にはちゃんと戻る」
「本当ですね?約束していただけますか?」
「あぁ、約束だ」
それでようやく名前は腕をほどくことができた。指を絡め、誓いをもぎ取ったことで。
ようやく安心して、旅立つ彼を見送ることができた。
「……いってらっしゃいませ」
空を駆る影が見えなくなるまで名前は見上げ続けた。働き始めた城内が喧騒に包まれるまで、ずっと。