楊ゼン、友と語らう
早起きは楊ゼンの常であった。夜は遅く、朝は早く。それは大事の前にはごく当たり前の習慣として楊ゼンのなかに根づいていた。
しかしこの日に限っては違っていた。働きづめであることを、最近できたばかりの友に心配されたのだ。
楊ゼンの体はその容貌に反して頑健にできていたのだけれど、友の憂慮に揺れる瞳をこれ以上曇らせることができなかった。ただそれだけの理由で、楊ゼンは習慣を変更した。たまの休息くらいいいかと、そう考える自分に少しばかり戸惑いながら。
「なぜに朝目覚めてみるとこんな書き置きが……」
その結果がこれである。
寝起きの楊ゼンの枕元に置かれていた手紙。差出人の名は周の軍師太公望である。そんな手紙を残した彼は、見計らったかのように楊ゼンが手紙を見つけた後でいずこかへ旅立っていった。呆然と空を見上げる楊ゼンを置き去りにして。
「知っていたなら教えてくれればよかったのに……」
太公望の突飛な行動は今に始まったことではない。彼の思いつきに振り回されるのも。
それでもつい詰るような言葉を吐いてしまうのは、友人である彼女に気を許しているからだろうか。
「ごめんなさい……楊ゼンさんには伝えてあるものとばかり」
早朝。世話焼きな彼女ーー名前が楊ゼンの私室を訪れたのは楊ゼンの予想通りだ。前日、あらかじめ起きる予定の時刻を彼女に教えていたのだから。
けれどわざわざ彼女が楊ゼンの元にやって来たのは名前自身の性格によるものだろう。世話焼きで気を回しやすい。彼女の気質は、楊ゼンにとって最早馴染み深いものとなっていた。
そんな名前は穏やかに楊ゼンの髪を梳いていた。何が楽しいのか、柔らかな微笑を浮かべて。
楊ゼンの寝宮には白々とした陽光が射し込んでいた。それは少女の肌膚をなめらかに染め上げ、胡姫のような装いに仕立てあげていた。黒い髪も黒い瞳も、この国ではごく一般的なものであるにも関わらず。
けれど彼女の羨望の眼差しは鏡の向こうの楊ゼンへと向けられていた。己のことなどちらりとも考えず、彼女は感嘆の息を洩らしながら、楽しげに楊ゼンの世話を焼いていた。
「でもなんだか誇らしいです。友が皆に慕われているというのは」
軍師代行となる。それすなわち太公望からの、ひいては皆からの信頼の証であろう。
そう語る名前は楊ゼンの髪を結い、その出来映えに満足げに目を細めていた。
温かなーー慈愛に満ちた眼差し。
それは遠い記憶を呼び起こすもので。しかしそれとはまた少し違った感覚に、楊ゼンは口許を歪めた。
不快なわけではない。ただ、むず痒さを覚えただけで。らしくもなく、面映ゆくはにかんだ。
「師叔には体よく使われているような気がするけど……」
取り繕うように楊ゼンは言い連ねる。名前にはまだ聞かせたことのなかった、太公望との出会いを含めて。
それは口にするには些か気恥ずかしい思い出だった。だから楊ゼンは進んで人に話そうとはしなかったし、そうする必要もないと思っていた。思いつきもしなかった、というべきか。
しかし何故だか名前にはーー今の彼女には聞いてほしかった。友となった、彼女には。
「太公望どのは以前からそのような無茶ばかりなさっていたのですね」
「そりゃあもう」
楊ゼンが肩を竦めると、名前は堪えきれないとばかりに口許を押さえた。しかし留めきれなかった密やかな笑みが、少女のまろやかな指先から溢れてくる。羽毛を撫でるような軽やかな音が。
それにつられて、楊ゼンも微笑んだ。白々とした陽光に照らされた寝宮は、驚くほど凪いでいた。永遠にも似た揺りかごがここにはあった。
「今度は僕が結ってあげましょう」
早朝から忙しなく働いていたであろう少女の波打つ黒髪。楊ゼンは立ち上がり、代わりに名前を鏡台の前に座らせた。
金銀の象嵌が施された青銅製の鏡。その華やかな湖面に少女を横たえ、楊ゼンは艶やかな髪に手を滑らす。
「ご希望は?どんな風がお好みかい?」
「そうですね……、ここはやはり楊ゼンさんにお任せいたします」
名前の目には信頼の色しかない。緩やかな巻き毛を梳きながら、「そういうのが困るんだよ」と楊ゼンが言っても。
心から困っているわけではないとわかっているから、名前は歌うように言葉を紡いだ。
「これも一種の策ですよ。こうすれば秘密主義な楊ゼンさんの好みが自然と明らかになるでしょう?」
「そして君はその情報を女官たちに売るわけだ」
「ええ、そうすればわたしへの誤解も一気に消し飛びますもの」
名前の笑い声は鈴を転がすようで心地のいいものだった。無垢で純粋で、汚れのない少女の声色。策だなんだと言いながら、それが彼女の冗談に過ぎないことを楊ゼンは知っている。
だから楊ゼンもそれに乗って、「美しいのも考えものだね」と溜め息を吐いてみせた。
しかしそうしながらも楊ゼンの器用な手先は止まることを知らない。するりするりと名前の髪を後頭部で編み込み、すっきりと纏めあげてしまう。
「さ、これで完成だ」
最後に髪紐で結んで、楊ゼンは名前の肩を叩いた。振り返る彼女に合わせて、龍の紋様が風に靡く。少女の黒い瞳は、これど夜空のように光が瞬いていた。ちかちかと輝く一等星。手が届きそうな煌めき。生き生きとした目が、鏡の中ではない楊ゼンを射抜いた。
「ありがとう、楊ゼンさん」
とっても素敵ね。そう子供のように唇を弓なりにして、名前は何度も鏡を覗き込んだ。右へ左へ。様々な角度から楊ゼンの作品を見回し、その繊細さに「すごいわ、」と繰り返した。
「うちにもとびきり上手に髪を結ってくれる子がいるんだけど……楊ゼンさんも負けてないわね」
「そこは僕の方が上手い、と言うべきじゃないかな」
「それはできないわ。だって身内贔屓がありますもの」
楊ゼンは「残念だ」と眉を下げてみせた。が、その実はそんなこともない。それが彼女にとって最大級の賛辞であることを楊ゼンは見抜いていた。
「これなら馬を駆るのも一際気持ちいいでしょうね。思いきり風を浴びれそう……」
「行ってくればいいじゃないか。兵を連れていくなら訓練にもなるし」
「それは大変魅力的な提案ですけど、父のことも心配ですし。それに……」
やるべきことが山積していると名前は頭を押さえる。水利工事や農具の改良、毎年のことではあるが螟ヨクの駆除、農地の耕作など、国を守るために必要なのは戦ばかりではない。先の行軍で消耗したものも今のうちに補填しなければならないのだ。
名前はそのなかでも特に治水事業に力を入れているらしく。
「この土地を利用して貯水池を作れればと思うのですが……」
名前がそう悩ましげにぼやいた時だった。
「楊ゼンさん、こっちに名前は……」
扉を叩く音がして、青年の影が室内に落ちた。
予告のない客人。されど楊ゼンにとっては想定内だった。むしろ遅いなとすら思うほどで。
名前の姿を認め、口をつぐんだ彼に、楊ゼンは素知らぬ顔で、「おや、天化くんじゃないか」と嘯いた。
「珍しいね。わざわざ名前くんを探しに?」
「そうなのですか?」
鈍感な名前は楊ゼンがすっとぼけていることに気づかないし、同じくこんなことばかり鈍感な天化も「まぁ……」と目を泳がせながら頬を掻いた。
「ごめんなさい、お手間を取らせてしまいましたね」
「いや、別に……」
天化はそこでちらりと楊ゼンを見た。けれど楊ゼンが微笑のまま首を傾げると、決まり悪げに視線を逸らす。しかしやはり何か気になるのか、楊ゼンが目を離せばまた窺い見てくる。
とはいえそこに敵意や害意はない。たぶん名前が彼の立場に立ったとしてもきっと同じ反応を返すだろう。
嫉妬心はある。けれどそれが攻撃的な反応になることはない。天化も、名前も。
……だからついからかいたくなってしまうのだけれど。
「そうだ、なら天化くんたちと鍛練でもしてきたらどうだい?南宮括くんも無理矢理引っ張ってきてさ」
そのお詫びとばかりに楊ゼンは手を叩いた。集まる二つの視線。わけがわからないと首を捻る様子すらそっくりで、似た者同士なのだなと痛感した。
「多少荒療治な方が南宮括くんには効くんじゃないかな?」
「そうでしょうか……?」
「でも俺っちもそんな気がするさ」
部屋で籠ってるより外に出た方がいい。
なんの雑じり気もない瞳に背中を押され、やがて名前も「そうですね」と頷いた。
「では天化どの、お手伝いいただいてもよろしいですか?」
「もちろんさ。つーか俺っちもそうだけど天祥も元気有り余ってっからな、願ったりかなったりってやつさ」
楊ゼンに一礼してから、ふたつの影は仲睦まじく寝宮を出ていった。ふたりの距離は近く、けれどそれがごく自然だとでもいわんばかりの空気が流れていた。
「やれやれ……」
年下の友と仲間の背を見送り、楊ゼンは伸びをした。不思議と晴れやかな気持ちだった。それはきっと好きな人たちが幸せそうであったからであろう。
そんなことを真面目に考える自分もおかしくて、楊ゼンはひとり笑った。
室内には自分の影しかない。だというのに孤独も寂しさも感じなかった。過去を振り返っても、胸に空虚が滲みてくることはなかった。心に差すのは温かで穏やかな太陽の光だけであった。