寒空の下

 レシートはすぐに見つかった。
 電信柱の下で落ち葉と一緒に踊る紙切れ。名前を下ろした透はそれを拾い上げた。
 「……なるほどね」にやり。全力で駆けたのに、彼の呼吸は少しも乱れがない。それに一目見ただけで真相を見抜いてしまった。

「さぁ次はコナン君を捕まえるよ」

 用済みのレシートを律儀に仕舞って、彼はまた名前を抱き上げた。つかの間の地上。そして別れ。名前だってもう走れるのに。
 それに透なら名前がいなくたってことの解決を図れたろう。にも関わらず、それをしなかったのはなぜか。
 答えは、この数ヶ月が導いてくれた。――透の役に立てない。その焦燥感を彼は見抜いていた。だからわざと名前の力を借りたのだ。おかげで名前は救われた。その証拠に、もうちっとも痛くない。 心も、体も。

「……ありがとう」

 改まって言うのはなんだか気恥ずかしい。そんな余計な感情のせいで思ったより声が出なかった。これではもしかしたら風に紛れてしまったかも。

「それは僕の台詞だろう」

 不安は、杞憂に終わった。
 透が笑っている。「名前がいてよかった」名前への気遣いなどなかった顔をして。名前が気づいたことすら知らん顔で。名前をぎゅっと抱き締めた。
 だから名前は思ってしまった。込み上げる熱い衝動のまま。
 ――彼が、好きだ。
 唇を噛まなければ、口をついて出てしまうところだった。

 来た道を引き返し、車に乗り込む。

「あのまま走った方が近いのに」

 もはや馴染んだ助手席に座ってシートベルトをしめる。そうしないと透が怒るからすっかり習慣化してしまった。

「車がないと困るかもしれないじゃないか」

「どうして?」

「カーチェイスができない」

 制限速度ギリギリを走りながら、透はウインクした。過激な言葉と爽やかな笑顔。そのせいで冗談か判別がつかない。
 ひきつった笑みで答えるしか名前にはできなかった。

「……あれかな」

 住宅街で停車するトラック。名前は窓から顔を出してその鼻で確認した。追っているものと知っているもののにおい。「アレよ」間違いない。
 二人は顔を見合わせた。行こう。どちらともなく頷き、透はクラクションを鳴らす。静寂を裂く警笛。びくりとする宅配業者。「すみませーん!」ドアを開ける透を、二人の男は剣呑な目で振り返った。

「この路地狭いから譲ってもらえませんか?傷つけたくないので……」

 空気が変わる。そこにいるのは安室透なんかじゃない。一介の探偵にこんな静かな威圧感が放てるわけがない。
 名前はごくりと唾を飲んだ。匂いたつばかりの美しさ。それどころではないのに、目が離せない。
 けれど子どもたちはそんなの気にも止めない。「探偵の兄ちゃん!!」「助けて!」すがりつく声。切迫した表情。彼らにとって安室透はポアロの従業員で、そして今はたった一人の救世主なのだ。
 少年たちの叫びに、小太りの男は狼狽えた。「いや、これはその……」浮かぶ冷や汗。しかしもう片方の男はこれより肝がすわっているらしい。

「見られちまったら仕方ねぇ……」

 親指でコンテナを指し、透を脅そうとする男。咄嗟に名前は腰を浮かせかけた。が、すぐに思い直した。ここは、名前の出る幕ではない。
 そう思った通り、男はあっさり伸された。「ガキを殺されたくなかったらあんたもコンテナの中に……」その脅し文句すら最後まで言うことなく。

「言ったでしょ?傷つけたくないから譲ってくれと……」

 透の鋭く重い拳をまともに受けて立っていられる一般人はいない。男は血を吐いて崩れ落ちた。ほんの一瞬、まばたきの間に戦いは決していた。
 残った男にも戦意はない。怯えた様子で縮こまるばかり。そんな男に、「あなたもやります?」なんて誘いをかける透。満面の笑みを浮かべてのシャドーボクシング。それを見ていると、早く打ち合いたくてうずうずしてくる。
 思わずドアを開けると、

「名前、手伝ってくれ」

 どこから出したのか、テープを手に透が呼んだ。名前は意気揚々と駆け寄り、嬉々として男たちを縛り上げていく。「お姉さんも一緒だったんだ!」きらきらした声には透が答えてくれた。

「名前を送り届ける途中だったんだよ」

「えっ、じゃあ暗号は?」

 透は自分の才能をひけらかそうとしない。「ここを通りかかったのはたまたまさ」レシートも暗号も手に入れたというのに、彼はあえて自分を落とす。それは潜入する者としては目立ちたくないという理由からだ。それでも彼ほど有り余る才を持つ人がバカを演じるのは並大抵でないと名前は思う。だからこそ余計に彼が好ましい。目的のために自己を犠牲にする彼を護りたいと望んでしまう。

「なんだぁ〜〜……」

 がっかりする少年たち。その後ろで息を殺す少女に名前は気づいていた。気づいた上で、気づかぬフリをした。

「じゃあね」

 透が少年たちに背を向ける。その間に名前は急いでコートを脱いだ。「寒いでしょう」なぜか友人の上着を着ている少女に自分のそれを羽織らせる。

「……気をつけて」

 少女の目が見開かれる。彼女の唇が震える。
 けれど何も聞くことなく名前は車に戻った。

「どうしたの?」

 コートをなくした名前に当然の疑問がぶつけられる。
 名前は曖昧に笑った。

「寒くて、かわいそうだったから」

 それは、せめてもの詫びだった。気をつけて。どうか、組織から逃げ延びて。生きて、幸せになって。
 以前よりもずっと、彼女に対してそう願ってしまった。