蝉玉、不満を持つ
仙界大戦の騒乱も落ち着き、愛するハニーとの新生活を満喫していた蝉玉の元に、ある日楊ゼンからの招集がかかった。
「楊ゼンさんから皆様にお話があるそうです」
呼び集めているのは友人の名前で、だから蝉玉はその誘いを無下にはできなかった。めんどくさいわね、そう口では言いつつも。
名前の生き生きとした表情を見ると、まぁいいかと思えてしまうのだから不思議だ。
長らく金鰲島で修行を積み、同性の友人に恵まれなかった蝉玉にとって、名前という友人はいつしかかけがえのない存在になっていた。
……名前にとってもそうだといいのだけれど。
そんなことを考えながら、蝉玉は名前にちらりと視線を走らせた。
「殷に進軍を開始します。武王には軍の先頭に立って頂き……」
そう演説する楊ゼンを見上げる横顔。真っ直ぐに見つめる目は蝉玉にもわかるほど輝いていて。
「……なんでそんなに嬉しそうなのよ?」
「え?」
つい耳打ちをしてしまう。それは密やかな声であったのだけれど、一瞬だけ楊ゼンから視線が投げられたような気がした。もちろん気のせいかもしれない。それが咎めるような色をしている気になったのも。
確かなのは蝉玉の言葉に目を見開いた名前が、その後さっと頬を赤らめたことだ。
普段ならば蝋のように白い名前の肌。それは色づくと途端に明らかになってしまう。彼女の恥じらいとか、そういったものが。
「いやだわ」名前はそう言って頬を押さえた。思わずといった風に。けれど薄い皮膚の下ではちらちらと炎が揺れていた。
「そんなにわかりやすいかしら」
名前は吐息混じりに囁いた。独り言のようにささやかに。そうして人目を憚りながら、彼女は言葉を続けた。
「だって、誇らしいじゃないですか。あのようにご立派な方がわたしの友だなんて」
名前の目は変わらず楊ゼンに注がれていた。その言葉通り瞳には憧憬や友誼があった。しかし蝉玉にはそれ以外のものも読み取れた。それ以外のーー信服や慈愛といったものも。
「ふーん……」
それがなんだか面白くない。
蝉玉は口を尖らせ、楊ゼンに視線を戻した。
「以上!何か質問は!?」
話を終え、楊ゼンはパンと音を立てて手元の予定帳を閉じた。
それもまた、面白くない。
修行不足だの稽古をつけるだの……好き放題言われた上にこれだ。おまけに蝉玉には引っ掛かることがひとつ。
「はいはいは〜い!!!」
だから蝉玉は思いきり手を挙げた。隣で名前がびっくりしているのがわかったけれど、言わずにはいられなかった。
「太公望がいないってーのに勝手に殷を滅ぼしていいのかしら?あんたまた主役の座を狙って目立とうとよけいな事をするつもりね!!」
「せ、蝉玉どの……っ」
「だってそうとしか思えないじゃない」
問い質す蝉玉に、名前は慌てたように言葉を詰まらせた。狼狽の滲む瞳。それが友人同士の諍いに胸を痛めるが故のことだと蝉玉にだってわかる。
わかるけれど、それでもーーいや、だからこそ、面白くなかった。
「シャーラップ!!!これを見たまえ!!!」
自分を睨めつける視線など意にも介さず、楊ゼンは紙切れを一枚突き出した。なぜだかすごくいい笑顔で。
ーーそれが一体なんだって言うのよ。
蝉玉はそう思いながらも素直に目を細めた。
楊ゼンへ。そう始まる文章を追いかけていると、「太公望どのの置き手紙ですよ」と事情を知る名前に教えられる。
「ここに『楊ゼンに全て任す』と書いてあるでしょう!これすなわち僕が太公望師叔と同じという事なのさ!!」
ついでに楊ゼンからも。紙切れを指し示しながらわざわざ解説してくれるが、その主張はどうかと思う。蝉玉にはやはり彼が主役の座を狙っているようにしか見えなかった。
「未来の教科書には『殷を滅ぼした周の軍師は楊ゼンである』……と記されるでしょう!!!」
それは彼のこの発言からも明らかだ。
なのに名前は「おぉ〜」と感嘆したような声を洩らして拍手を送っている。そんな彼女の目は疑うことを知らない子供のそれで。
ーー詐欺とかに引っ掛かりそうね。
蝉玉は友人の未来が心配になったし、この友人を守れるのは自分しかいないとすら思ったのだ。
だから名前に「折り入ってお話が……」と誘われた時にはどきりとした。彼女の表情が神妙なものであったのもそれを助長した。すわ事件か、と身構えてしまったのも当たり前のことだろう。
「え!?告白したの!?」
ーーまぁ、大事件であることに変わりはなかったのだけれど。
南家の邸。その後庭にある亭子に招待された蝉玉は、名前の口から告げられた言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。
でも仕方ない。だって友人がとうとう想い人に本心を打ち明けたというのだから。
蝉玉は茶器を置き、身を乗り出す。「それでそれで!?」こういう話なら大歓迎。楽しくてにやにやと頬が緩むのを抑えられなかった。
「それで、って……」
目をさ迷わせる名前。初々しい様子には微笑ましいと言わざるを得ない。先刻の比ではないほどに朱に染まった肌も、蝉玉の心を浮き足立たせた。
名前の日焼け知らずの肌は絹糸のような黒髪を輝かしく見せていた。そして頬に差す薔薇色も、匂い立ちそうなほど色鮮やかに。
この顔を天化にも見せてやりたい。あぁ、でも二人だけの秘密っていうのも素敵だ。……なんとも悩ましいところである。
そんなことを考えながら、蝉玉は戸惑った風な彼女に助け船を出してやった。
「そりゃあ返事はどうだったのってことよ」
「返事……」
けれど名前のぼんやりとした呟きに不安になる。
蝉玉は一分たりとも疑っていなかった。名前が想うのと同じだけ、天化も彼女を想っているだろうと。
彼に直接訊ねたことはないし、まして彼から打ち明けられたことなどない。それでも蝉玉にはわかっていた。女の勘……と言うほどのことでもない。ただ、彼らがわかりやすすぎるというだけで。
なのに名前のこの反応!当然と思っていた予想が外れる予感に、蝉玉は「まさか……」と口許をひきつらせた。
「返事、聞いてないとか……?」
そしてその予感は的中した。
こくりと頷く名前に、蝉玉は思わず天を仰ぐ。まさか、ここまで奥手だとは。名前も天化も揃いも揃って何をしているのだろう。
特に天化!男ならもっと強引なくらいがいいじゃないの!と蝉玉は愛するハニーを思い浮かべながら溜め息を吐いた。
「で、ですがわたしは今のままで十分満足ですし……、それに、」
「それに?」
「……これは、わたしの我儘ですから」
問い返した蝉玉の前で、名前は穏やかな微笑を浮かべた。
それは諦めといった類いのものではない。本心から彼女がそう思っているのだと蝉玉にはわかった。
「わたしはただ自分が後悔しないために……それだけのために想いを告げました。だから彼を急かすつもりも強制するつもりもありません」
名前は胸に手を当て、目を伏せていた。長い睫毛の奥で瞬く光。それは春の日差しのように柔らかく温かなものだった。
「……そう」
だから蝉玉はそれ以上のことを言えなかった。
納得したわけじゃない。名前はもっと貪欲になるべきだと思うし、愛する者同士が結ばれないなんて許されないと思う。
でも同じだけ、友の思いを尊重したいとも思った。それが彼女なりの愛し方だというなら受け入れてあげたいと。友として、寄り添ってあげたいと。
「でもあたしはあたしで勝手に応援するからね!こんなとこで満足されたら嫌だもの」
「ふふっ……はい、ありがとうございます」
蝉玉どのがいるなら心強いわ。
そう名前は言って、淑やかな所作で茶器を傾けた。
その言葉は嬉しい。嬉しいけれど、でも、引っ掛かるものがある。
「……ねぇ、この話、楊ゼンにも話した?」
なんでもない風に蝉玉は訊ねた。大したことではないと。ふと思いついただけだと嘯いて、しかし心は緊張しながら名前を注視して。
そして、名前は。
「まさか!」
あり得ないと、そう笑った。
「楊ゼンさんにはバレてそうですけど……でもこんなこと話せません」
「じゃああたしだけ?」
「はい、蝉玉どのにだけ」
名前の目は黒曜石のようだった。黒々としていて、なのに不思議と目映さを感じた。深い湖のようで、けれど星の綺麗な夜のようでもあった。
「……そっか」
でも蝉玉はそれだけでは満足できなかった。だから名前にひとつの提案をした。
それはほんの些細な変化を彼女に促すものであったのだけれど。
「……蝉玉さん、」
照れたように呼ばれた自分の名前が、ひどく特別な響きを持っているように思えたのだった。