武官、旅支度をする
梅のつぼみが膨らむ頃。楊ゼンは名前に皆を集めるようにと指示を出した。その目には決意の色が見てとれ、時機がきたのだと名前にも察することができた。
先の進軍でも多くの諸侯の応援を得ることができた。そして今。周の立てた武勲に、賛同の意を示す者は前回以上の数となっていた。殷から周へと逃れる功臣も後をたたない。
ーーこれ以上の好機はないだろう。
名前の予感通り、楊ゼンから指示が下された翌日、周は殷への進軍を開始することとなった。
「では、行って参ります」
「……ええ」
その日の朝。名前は裾の短い上着に体の線に合わせた裳、腰には皮帯、足には皮の長靴といった出で立ちで邸の門前に立っていた。細長い筒袖が特徴の服装は騎馬遊牧民由来の胡服と呼ばれるものだ。漢民族にはまだ馴染みの浅い服装だが、乗馬と騎射に相応しいことから名前は好んで身に纏っていた。
そんな伝統に逆らう格好をした娘を、母は憂慮の面持ちで見つめた。恐らくは娘の女としての将来だとか、死と隣り合わせの道だとか、そういうものを危惧しているのだろう。
これは母の愛だ。それを今は痛いほど感じて、名前は母の手を握った。
「ご心配をおかけして申し訳なく思います。ですがどうか許してください。これがわたしの選んだ道なのです」
許してほしいと請うのは残酷なことだろう。答えなど最初から定められている。母には頷くことしかできないとわかっている。
それでも名前は安心してくれとは言えなかった。自身のことも、父のことも。戦に赴く家族たちが全員生きて戻れる保証などどこにもありはしないのだ。
叶えられない約束を口にすることはできなかった。
「ええ、ええ、わかっていますとも」
そしてそれを母も受け入れていた。西岐の将軍を夫に迎えた時から、きっと。
ずっと耐えるしかなかったであろう母は、諦念の滲む笑みを浮かべた。
「あなたがそういう子だというのはわかっているわ。私の娘ですもの」
「母上……」
頬を撫でる指先は名前のものより小さく、頼りなかった。そして、それを守るのが力を与えられた自身の役目であるとも思った。戦いとは力ある者の定めであると。
「あなたたちの無事を祈っています」
最後に名前を抱き締め、母は旅立つ子を見送った。その顔に涙はなかった。姿が見えなくなるまで、母は笑みを絶やさなかった。それが母の強さなのだと名前は思った。
ならば名前は名前にできることをするまでだ。
「兵の装備は?」
「皆行き渡っております」
中大夫からの報告を受けながら、名前は準備を整える兵や馬を見て回った。此度の戦では戦車が重要な戦力となるであろう。だからそれを引く馬の様子もしっかり確認しておかなければならなかった。
将である名前が指揮するのは一軍ーーつまりは五師、そこには一万二千五百の兵が編成されている。これほどの大所帯を率いるのは初めてのことだ。それだけに責任の重さを感じ、しかしそれを露とも見せず名前は部下の話を聞いていた。
「名前!」
そんな名前に声をかけてきたのは天化だった。彼は喧騒を掻き分け名前の元まで歩み寄る。
「それでは失礼いたします」
天化は黄家の子息だ。おまけに常人には手の届かない道士でもある。
そんな彼の邪魔をしてはいけないと、話も一段落した中大夫はそそくさと立ち去っていった。
「あれ?話は終わったのか?」
遮ってしまったのなら悪い、と天化は頭を掻く。それを否定しながら、名前は自身の心が不思議と凪いでいくのを感じていた。
今までにないほどの大軍。無数の命を背負うということ。その荷の重さに、張り詰めていた心がほどけていく。ひりついた喉は潤いを取り戻し、名前はほっと息を吐いた。
「……むしろ、感謝をしたいくらいです」
「え?」
「いいえ、なんでも」
名前は微笑み、目を細めた。
遠く澄んだ空。緩やかに照りつける日射し。緑の息吹。そのいずれも彼という存在には敵わなかった。彼がただそこにいる。それだけで、名前は。
「天化どのの身支度は終わったのですか?」
「ん?あぁ、だからなんか手伝えることねぇかなって名前を探してたんさ」
彼は白い歯を見せてからりと笑う。そうしてから名前をまじまじと見下ろし、「重そうだな」と呟いた。
「俺っちがちょっとでも肩代わりできたらよかったんだけどな」
「お気持ちだけで十分……それにこれは皆同じことですから」
名前も自身の装備を見た。胡服に、腰からぶら下げられた箭箙、そして弓嚢とそれに包まれた弓。加えて鉄刀や儀杖用の戈も身につけている。
それから、背中には数多の命も。
けれどそれを重いと思わなくなる方がよほど怖かった。だから、これでいいのだ。
名前がそう言うと、「そうだな」と天化も答えた。
彼には初めから答えがわかっていたかのようだった。その目には名前への理解とーー自惚れていいのなら、ほんの少しの寂しさがあるように思えた。
「あの」
「名前、」
名前は何事かを言いかけた。それは自分でも自覚のないもので、つまりはそう、言うべき言葉など持ち合わせていなかった。
だから天化に名前を呼ばれただけで言葉を呑み込んだ。何もかもが霧散した。彼の目を見てしまえば。その、熱っぽい眼差しに捕らえられてしまえば。
時が止まる。世界が遠ざかる。名前に知覚できるのは自身の鼓動の早さだとか頬に触れた指先が燃えるようだということくらいだった。
何もかも、名前には見送ることしかできなかった。
ーーのだけれど。
「天化兄様〜〜〜!!!」
「ぐっ……」
「あ、名前お姉ちゃんもいる!」
隔たりを打ち破ったのは少年の軽やかな声。それから満面の笑みであった。
「天祥……」
背後から飛びつかれた天化は、しかしさすがというか一切足許を揺らがせることなく弟を受け止めていた。そして戸惑いつつも元気な弟の姿に胸を撫で下ろしていた。それは兄らしい表情で、名前の中にまで温かなものが広がった。
「天祥どの、どうかなさったのですか?」
「暇だから遊びに来た!」
ナタク兄ちゃんは忙しいみたいだし……という言葉に、膝を突いた名前はあぁ、とつい微妙な顔になってしまう。
仙界大戦以後、以前にも増して新たな力を求めるようになったナタクは太乙真人に宝貝をねだっているらしかった。それも、物理的に。
とはいえ親子関係に口を出すのも憚られ……お陰で手持ち無沙汰になってしまった名前は、最近では楊ゼンの世話を焼くことに日々のやる気を見出だしていた。
「では一緒に……そうですね、馬の様子でも見てはいきませんか?」
「そうすると名前お姉ちゃんは嬉しい?」
「ええ、とても助かります」
「じゃあやる!」
パッと輝く目に、名前と天化は顔を見合わせる。
ありがとな。そう音もなく瞳だけで伝えられ、名前はそっと首を振った。
「救われているのはわたしの方ですから」
そう言うと、天化はわからないといった顔をした。
けれど名前に真実を告げるつもりはなかった。だってそれは告白などよりもずっと気恥ずかしいものであったから。