武官、我儘になる
行軍中であっても名前の朝は早い。いや、だからこそと言うべきか。
日が昇るより早く目覚めた名前は、身支度を整えるとすぐに行動を始めた。夜番をしていた兵と代わり、火をおこし、飲み水の確保をする。そうしている間に天幕から出てきた楊ゼンと行き合い、挨拶を交わす。これもいつものことだ。
そして、最近では。
「はよ……」
「おはようございます、姫発さま」
名前が朝食の準備を始める頃に姫発が起き出すのも日常となっていた。
姫発は大きな欠伸を手で隠しながら名前の隣に座った。格好は武王らしく整えてあるというのに、その所作は子供の頃と変わりない。気の抜けた表情も、眠気の残る仕草も。
だから名前は笑いながらその頬に手を伸ばした。
「姫発さまったら、お髭の手入れくらいご自分でなさったらどうです?」
「だってよぉ……めんどくせーじゃねぇか。どうせ伸びるんだし……」
「もう……」
名前は呆れたように言ったけれど、もう片方の手は既に鉄削を用意していた。それだけで姫発には通じてしまう。名前が何も口にせずとも。
彼は自分から顎を持ち上げ、目を閉じた。名前がやりやすいように、と。
「伸ばすのもオヤジみたいでカッコいいと思ったんだがなぁ……」
「ならばきちんと整えながら伸ばさなくては、あのような綺麗な流れは作れませんよ」
「それはそれでめんどくせーな」
ぶつぶつぼやいていた姫発であったけれど、口許に触れる鉄削の冷たさにはさすがに口を閉ざした。
その輪郭に左手を添え、名前は慎重に鉄削を動かしていく。彼の端正な顔に生える不揃いな無精髭を。これではせっかくのお顔が皆によく見えないじゃない、と名前は口を尖らせながらも繊細な指使いで削ぎ落としていった。
姫発が口を閉ざし、名前も神経を尖らせているせいで、自然、二人の間には沈黙が落ちる。徐々に白んでゆく空も、音を取り戻す世界も、二人にはなんの関係もないものだった。
名前は改めて姫発の顔を見た。彼が座っているせいで、今は見下ろす格好となっている顔を。いつだったか、子供の頃は一時だけ彼より背が高かったことを思い出しながら、名前は王となった幼馴染みの顔を見た。
姫発は日に日に変わっていく。たとえば、昔は誰かに起こされないと昼まで寝てたものなのに、今ではこうしてひとり早朝に起き出すようになったことだとか。かつては礼制の授業ですらうたた寝の時間としていたのに、近頃は太公望から授けられた兵法書を夜遅くまで読んでいるらしいことだとか。
そうした変化を見つけるたびに、なんとなく寂しい感情が名前の中に芽生えていった。
歓迎すべきことだとはわかっている。もうお互いに子供ではないことも。
それでもやはり、こうして世話を焼ける瞬間を迎えるとーーどうしても嬉しくなってしまうのだった。
「ん?終わったのか?」
手が止まったのを察し、姫発が目を開く。
覗く、名前と同じ黒い瞳。なのにそれはもう名前のものとはかけ離れていた。そこには威厳だとか仁徳だとかーー賢王に相応しい才覚があった。
この人に仕えられたなら幸せだろうと名前は思った。生涯をこの方に捧げられたなら、臣下としてこれ以上の幸福はないだろう。
たぶんーーいや、絶対に。
「……はい、」
それでもきっと、名前は。
「今日も今日とて世界で一番格好いい王さまの出来上がりです」
その時が迫る足音に目を伏せ、けれどすぐに名前は笑みを刷いた。眦を下げ、唇は弧を描いて。笑いながら、姫発から手を離した。
「なんだよ、照れるじゃねーか」
「あら、このくらいの美辞麗句は流していただきませんと。この地が平らかになった暁にはそれ以上の賛辞があなたに向けられるのですから」
「うーん……イマイチ想像つかねぇな……」
頭を掻く姫発には見えていないはずだ。名前の左手が握り締められていることなんて。
……離れがたいと、思っていることなんて。
どちらも欲しいなど、強欲もいいところだ。わかっている。仙人界と人間界。どちらか片方しか選べないことなど。得難い友か、愛しい家族か。そのどちらかを選ばなければならないことなど。
わかっていても、名前には胸中に広がる寂寥感を打ち消す術が見つからなかった。
「……なぁ、名前」
そんなことを考えていたから、姫発からの呼び掛けにも動揺してしまう。震える肩。戦く瞳。
けれどそのどれにも彼は触れず、ただ昔のように真っ白な笑顔を見せた。
「どうせだし髪も整えてくれよ。最近暑くなってきたし、鬱陶しくてよ」
彼は笑いながら、前髪を一房持ち上げた。
「名前なら上手く切ってくれるだろ?」
伸ばされた手。今度は彼から向けられた熱は、容易く名前の腕を捕まえた。捕まえ、ほどいた。その強ばった顔を。どうしようもなく締め付ける胸を。
ほどいて、名前の頬に笑みを灯した。
「……仕方ないですね」
名前は微笑んで、また距離を詰めた。
彼のことを思うなら。優しい主の未来を思うなら、名前の方から距離を取るべきだろう。それは早ければ早いほどいいはずだ。
でも名前にはできなかった。離れがたいと思う心に嘘は吐けなかった。どうしても、我儘になってしまった。
「俺が一番格好いい髪型にしてくれよ」
「そんな器用な真似できませんよ」
「んだよ、さっきは格好いいって言ったじゃねーか!」
彼の背後に周り、墨を溶かしたような黒髪に触れた。滑らかなそれは少しも痛むことなく名前の指の間を流れ、溢れ落ちる。掬い上げても、いずれは。
それでもまだ触れていたかった。別れが迫っていても。優しい彼を傷つけるのだとしても。
「どんな見目でも姫発さまこそが一番格好いい、自慢の王さまです」
「……お前はまた恥ずかしいことを……」
「ふふっ、もしや照れていらっしゃるのですか?」
「照れてねぇ!」
ーーそれでも、今はまだ。