武官、関を越える


 一行が関を越えると、人民は挙ってその姿を目にしようと詰めかけた。鳴り響く笙、焚かれる香。彼らの歓待は先の行軍以上のもので、さすがの名前も驚かされた。
 同時に、それほどまでに人心が離れているのだと思い知らされる。
 紂王の横暴は国中に広がり、既に天命は定まっている。とはいえ、元々の彼は賢王として名高かった。才気に溢れ、武勇に優れた理想の王。それが紂王という人だった。
 彼が変わってしまったのは妲己を娶ったあと。仙道に狂わされなければ紂王の今もないのだと思うと、痛ましさを感じずにはいられなかった。

「名前お姉ちゃん遊ぼー!」

 だから天祥からそう誘われた時、名前は思わず頬を緩めてしまった。蝉玉や天祥の朗らかな笑顔に救われているのだと痛感したのだ。
 いかに優美な音色であろうと、いかに高貴な香りであろうと、そんなものは天祥には関わりのないこと。それらが子供の気を惹くものではないと、何より名前がよく知っている。幼少期に野山を駆け回ってばかりいたのは名前だって同じだ。

「悪い名前、忙しいよな?」

「いいえ、ここではわたしの仕事などさしたるものはありませんもの」

 申し訳なさそうに眉を下げる天化に名前は笑った。城内での歓待は城主の仕事であるし、それを受けるのも武王や楊ゼンといった身分の者だ。名前の仕事といえば物資の補填だとかそういったものくらいで、それは名前でなくてもできることだった。
 それに武王からは休息を命じられている。だから名前は割り当てられた部屋で休んでいたのだが、こうして二人が訪ねてきてくれたからには誘いに応じる以外選択肢はない。

「さて何をしましょうか?」

 名前は天祥へと訊ねた。
 城内には碁盤も双六もあるだう。用意しろと命じればすぐにでも。
 そう言うと、天祥は「うーん……」と不満げな顔をする。
 それが思った通りの表情で、名前は内心やはりなと思った。やはり、彼は子供の頃のわたしとよく似ている。
 だから名前は「では外に出ますか?」と提案した。

「宮殿区の東にはきれいな渓流が流れているようですよ」

 名前の言葉に、天祥は目を輝かせる。その反応すらも覚えのあるもので、名前は笑みを深めた。

 豊かな森林。響く鳥たちの木霊。覆い繁る緑は初夏の眩しい日射しを遮り、心地いい風を運んでくれていた。
 ーーそう、季節が巡るのは早いもので、世は夏を迎えていた。
 蓮の花が咲く沼地。麦の穂が揺れる耕地。忙しなく働く人々に見送られ、名前たちは東へと馬を進めた。
 森の中はそれまでの道が嘘のように涼やかで、湿った土と幹の匂いがした。それはどこか懐かしい香りで、名前は目を細める。
 しばらくすると川のせせらぎが聞こえてきた。その音に天祥はぱっと表情を変え、兄を置き去りにして駆けていく。そしてあっと思う間もなく、その姿は緑の中に消えていった。

「まったく……」

「大丈夫ですよ、天祥どのならきっと。それにここに危険はありませんから」

「いや、そのへんは心配してねぇさ」

 ーーなんたって武成王の子供だからな。
 そう言った天化の目はどこか遠くを見るものだった。
 彼は天祥の背に黄飛虎の影を見たのだろうか。名前がそうであったように。

「……ふふっ」

「ん?どうした?」

「いえ、」

 名前は口許を押さえ、それから馬を寄せた。
 不思議そうな顔をした天化。その表情もまた記憶の中で重なるものがあり、名前は笑いながら囁いた。

「天化どのもよく似ていらっしゃいますよ、……武成王さまに」

 言うと、天化は目を見張った。そこにあるのは驚き、それだけで。自覚がないのだと名前にもわかった。
 たぶん皆そうなのだろう。名前も父に似ていると言われることがあるけれど、自分では大将軍である父にはまだ遠く及ばないと痛感することばかりだ。
 だから名前は伝えたいと思った。伝えなければならないと。知っておいてほしいと。思ったから、名前は天化を見上げた。すぐ近くにある、彼の目を。

「よく似ていらっしゃいます。特に眼差しが。戦う時、それこそ型は違いますけど……闘志に燃える目、諦めを知らない目は武成王さまを彷彿させます」

「……そうかな」

「ええ、確かに」

 名前が頷くと、天化の瞳が揺れた。瞬く光と影。木々の隙間から陽光がちらちらと燃えている。
 天化は一度目を閉じ、次に開いた時にはもう笑っていた。なぜだかおかしそうに。

「親父にも似たようなこと言われたさ。負けん気は俺譲りだ、って」

 それは天化がまだ幼い頃の話だ。名前が知るはずもない過去のこと。だから名前の言葉がおかしくて天化は笑ったのだった。

「天化兄様〜〜!名前お姉ちゃん〜〜〜!」

 二人して笑っていると、天祥の声が聞こえてきた。それはまだかまだかと二人を急かすもので、名前と天化は顔を見合わせた。

「急いだ方がいいようですね」

「そうさね」

 駆け抜ける風は芳しく、日の光は温かく、清らかな気配が漂っている。それは揺りかごのような心地よさで。
 名前は今が永遠に続くことを夢見てしまった。