武官、川遊びをする
天祥の声に急かされ駆けた先。しばらくすると緑の天幕が途切れ、世界は光に満たされた。
目が眩むほどの目映さ。耳朶を擽るさやかな水音。頬を撫でる涼やかな風。
行き着いた先には砂利道が広がり、穏やかな渓流が流れていた。
「遅いよ二人とも!」
早く早くと手を振る天祥。既にその足に沓はなく、彼の馬は木に繋がれている。既に準備は整っているようだ。
隣を見れば、天化は肩を竦めてみせた。
「天祥は元気が有り余っているみたいさ」
「そのようですね」
ならば付き合わない以外道はなかろう。
名前は少し躊躇った後、革靴を脱ぎ捨てた。そうするとそれだけで身が軽くなったような気がした。
駆け寄った天祥に手を引かれ、名前はおずおずと川に足を浸す。ほどける熱。冷気は鮮烈なまでに体に染み渡り、しかしすぐに心地いい温もりへと変化した。
渓流は膝下ほどの深さであった。けれど流れは緩やかで足を取られるということもない。
「気持ちいいね!」
「ええ……」
水を蹴る天祥に、名前は目を細める。微笑ましさに。ーー懐かしさに。
童心に返ったような心地で名前もまた水を蹴った。かつての自分と重ねながら。
「へえ、こりゃいいさ」
天化もまた裾を折り、水面へと足を滑らせる。
小川は木々の緑と空の蒼さを取り込み、不思議な魅力を放っていた。名前は手を差し伸べ、指先からすり抜けていく水を感じた。
「まるで天化どのの瞳のようですね」
「そうか?」
「ええ。……すごくきれい」
水を掬い上げて遊んでいると、天化は頬を掻いた。なぜだか照れくさそうに。
屈み込んだ名前の前、天化が膝を折る。その衣が濡れるのも厭わず。視線を落とすことすらせず。
彼はただ、名前だけを見ていた。
名前がきれいだと言った澄んだ瞳に、名前だけを映して。その頬に指を滑らせた。
足許には豊かな水がある。冷たく心地いい気配がしている。なのに触れた指先はひどく熱かった。そしてそれは名前の頬も同じで。温もりは明確に名前へと伝播し、広がっていった。
「名前、俺は、」
天化の口がひどくゆっくりと動く。少なくとも名前にはそう見えた。彼の唇の戦慄きも、指先の微かな震えも。名前にははっきと見ることができた。見ていることしかできなかった。
ーーそして。
「俺はーー」
「えいっ!」
天化が何事か言いかけた。しかしその音は言葉となる前に霧散した。不意の攻撃によって。
降り注ぐ冷水。頭から爪先まで濡れそぼった体。髪から水を滴らせながら、名前と天化は顔を見合わせた。それから反射的に攻撃の主、天祥の方へと視線を移した。
「ね!こうするともっと気持ちいいでしょ!」
天祥は朗らかに笑っていた。そこに悪意は露ほどもなく。心から楽しいといいたげに笑っていた。
「……こら天祥!」
「わぁっ!!」
天化は表情を変えた。驚きのものから、悪戯っぽいものへと。
子供のような笑顔で、天化は弟へと水を投げ掛けた。掛けられた天祥もまた無邪気に笑う。その兄弟のやり取りは微笑ましいとしか言い様のないものであった。
「……あぁもう、危ないですよ!」
「平気だよ!」
「そうやって油断した時が一番危ないのですよ。わたしも幼少の時分にはそうやって……」
「転んだり?」
「……えぇ、そうです。それはもう痛くて痛くて」
笑う天化に言い当てられ、名前は口を尖らせた。こんな恥ずかしい思い出を話すつもりなんて毛頭なかったというのに。川の流れにつられて口まで滑らせてしまうとは。
「俺っちもそういうのは結構経験あるぜ?親父の真似して一人で馬乗ったら危うく死にかけたとか」
けれど天化がそれを嗤うことはなかった。おかしそうに目許を緩めてはいたけれど、それはひどく温かなものだった。
「……そういうものならわたしにも覚えがあります。父上の馬をこっそり乗り回したりとか」
「邸を抜け出して遠駆けしたりとか?」
「父上の得物を勝手に使ったりとか」
名前が言うと、天化も大きく頷いた。そんなこともあった、と。
名前は西岐で生きてきた。そして天化は殷で生まれ、崑崙山で修行をしてきた。その道が交わったのは長じてからのことで、もちろんお互いの幼少期など知る由もない。
なのにずっと昔から知っていたような気がした。ずっとずっと長い間彼と共に歩んできたように思えた。
「どうしたの、二人とも?」
笑い合う名前たちを天祥は不思議そうに見た。
名前は天化を見た。天化もまた、名前を。
二人は視線を交わし、相好を崩した。
それは麗らかな、初夏の昼下がりのことだった。
日差しは眩しく、水面は星屑のような瞬きを宿していた。緑は芳しく、風は穏やかにそよいでいた。世界は幸福に満ちていた。幸福に満ちた、ある日のことだった。