武官、占われる


「ひどい雨ね」

 蝉玉は天幕の外を気にしながら言った。
 彼女の言う通り、外界では爆ぜるような雨音が響いている。天幕を打ちすえる雨粒は大きく、少女のひめやかな声などは簡単にかき消されてしまいそうだ。
 名前も「そうね」と頷きながら、この先のことを案じた。
 朝歌への道中、いくつか越えねばならない川がある。この長雨で水嵩は増しているだろう。これまでの行軍は順調であったが、この先は水が引くのを待たねばならない。こちらには武王という何よりも尊い存在があるのだから、慎重であるに越したことはなかろう。
 そう言うと、蝉玉は眉をひそめた。退屈だ、と。確かにただじっと待つということは苦痛を伴う。特に彼女のような性格ならばなおさら。

「じゃあ暇だし……そうだ!占いでもしてあげるわ」

 だから彼女がそう言い出したのは想定内でもあったし、予想外でもあった。

「占い?」

「ええ!」

 この時代、大きな物事の前に吉凶を占うのはごく当たり前のことだ。王室には専属の占い師がいるし、彼らは高官と呼ぶべき重要な立場にある。だから人々にとって占いは身近にある存在だった。
 けれどそれは誰にでもできるものではない。だから蝉玉がそう言ったことに名前は驚き、鸚鵡返しをした。彼女からそういった話は聞いたことがなかったから。
 そう思っていることが通じたのか。

「ちょっと、あたしだって道士なのよ。それくらいできて当然じゃない」

 不満そうに蝉玉は唇を尖らせた。
 道士。特別な修行を積み、人を超越した者。それを忘れたことはない。忘れたことは、ないのだけれど……。

「ごめんなさい、わたしったらすっかり……その、蝉玉さんを普通の友人のように思ってしまって」

 名前にとって、蝉玉は道士である前にひとりの友人だった。特別な、と言ってもいいほどに。
 それは名前に彼女の立場を忘れさせるもので。
 以前ならば考えられないことだ。そう、名前は眉尻を下げたのだが。

「そ、そう……」

 蝉玉はなぜだか頬を染めた。恥じらいが前面に押し出された表情。彼女が照れているのだと名前にもわかる顔。

「ええっと……」

 それは名前にまで伝染していった。
 二人して赤面し押し黙る様子は端から見ればおかしな光景だろう。そう頭の片隅では思うのだけれど、上がった体温を冷ます方法など名前には思いつきもしなかった。

「じゃ、じゃあさっそくやってみましょ!」

「は、はい!」

 だから蝉玉がそう叫んだのに名前も合わせた。
 しかしそうしてから、はて、と首を傾げる。

「ですがここにはなんの用意もありませんよ?」

 占いには様々な手段がある。だがいずれにおいてもそれなりの準備を整えなければならない。
 亀卜では亀の甲羅もしくは動物の骨が必要になるし、式占では式盤を用いる。だがそのいずれも名前の天幕には用意されていなかった。
 すると蝉玉は少し考えた後で、手を叩いた。

「なら筮占にしましょ、蓍草なら持ってるでしょ?」

「それならばありますが……」

 蓍草は薬草の一種だ。これを軟膏にしたものには出血を抑える効果があるので名前たち兵は重宝していた。先日も薬にしようと手折ったばかりである。
 が、それは既に乾燥し、元の瑞々しさは欠片も残っていない。通常筮占で用いるものとはかけ離れている。
 そう、名前は言ったのだけれど。

「大丈夫よ、あたしに任せなさい!」

 ……彼女が言うのならその通りなのだろう。
 名前は自身を納得させ、蝉玉の言葉に従った。

「それじゃああたしの言う通りにしてね」

「それはもちろん……ですが何について占うのです?」

「決まってるじゃない、恋よ」

「こっ、」

 なんてことはないといった顔から飛び出した台詞に、名前は蓍草を取り落とした。引いていったはずの熱が再度頬に集まってくるのがわかる。
 恋、という語を蝉玉は事も無げに発するが、しかし名前にはそれを口にするのさえ憚られた。
 ーーだって、気恥ずかしいじゃない。
 そう誰にともなく内心で言い訳する名前を無視して、蝉玉は笑顔で「ほら早く」と催促した。それにはもう逆らう術がない。
 神聖な占いという行為を邪な想いで汚してもよいのか。というか悪い結果が出たらどうするのだろう。そうなったらもうまともに彼の顔を見ることもできなくなってしまうのではないか……。
 ぐるぐると百面相しながら、名前は促されるがまま蓍草を蝉玉へと手渡した。

「さ、まずはこれを二つに分けてちょうだい」

「はい……」

 取り出した蓍草は五十本。うち四十九本を二つに分けると、蝉玉は一本を小指にかけるよう言った。名前はただ彼女の指示に従うだけ。四本ずつ数えたり、余ったものを薬指と小指の間に挟んだり……そうした後にようやく蝉玉は口をつぐんだ。

「蝉玉さん……?」

 押し黙った蝉玉は容貌が整っているだけに恐ろしげな雰囲気があった。だから名前はおずおずと声をかけることしかできない。いかに心の中で嵐が吹き荒れようとも。
 しかしそれが長く続くはずもなく。

「……やったじゃない!」

 それまでが嘘のように、蝉玉は輝かんばかりの笑みを浮かべて顔を上げた。緊張に強張っていた名前には、その輝きは眩しすぎる。
 呆気にとられ声も出ない名前。だがそんなことは意に介さず、蝉玉は名前の手を取る。

「輿の輻が如く……って出てるわ、これはもう、もうっ!」

「うっ……」

 そのまま上下に振られる名前の手。勢いに肩が外れそうだと名前は呻くが蝉玉は気づかない。どころか、手を離すと今度は名前の背中を思いきり叩いてきた。

「よ、よい結果だったのですね……」

「そりゃあね!いやまぁあたしは最初から分かってたけど!!ま、当然の結果よね!うん!」

「はぁ……」

 とはいえ、我がことながら実感が沸かないのが実際のところだ。
 蝉玉を信用していないわけではない。占いの結果も、また。
 だがそれが吉を示していたからといって、名前にはなんの影響もなかった。現実として名前が彼を慕っているという以外、厳然たる事実はないのだから。そこで未来が天によって保証されていると言われても、対岸の出来事のようにしか思えなかった。
 しかし、友人の心遣いが嬉しいのは確かなことだ。

「ありがとうございます、蝉玉さん」

「いーえ、どういたしまして!」

 明るく笑う蝉玉は太陽のようだ。その輝きだけで長雨も吹き飛ばせそうなほどに。
 ただ、だからこそ気にかかった。

「ちょーっとだけ不安なことも出てるけど……でもこれは変化できる凶の方だし心配ないと思うわ」

 そんな彼女が不安だと言ったことに。ほんの少しだけ翳った瞳に。
 名前は訊ねることができなかった。それがどんな凶であるか、と。訊ねてしまうことで言霊となるのを恐れた。かといって友人の言葉をなかったことにできるはずもなく。
 だから名前にはひとつしか道はなかった。

「……肝に銘じておきますね」

 そう微笑むことしか、名前には。